五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編⑤「後趙の内乱&東晋の北伐その1」

冉閔

こんにちは。

後趙大魔王・石虎の死後、内乱の火の手があがります。

太子であった石世が跡を継ぎますがまだ子供でしたので、石世の母親・劉太后張豺が後趙の権力を握ります。

しかし、長安に向かっていた石虎の息子の一人石遵が長安への道程の途中で、「梁犢の乱」を鎮圧して鄴への帰路にあった石閔たちと合流し、劉太后と張豺へ反旗を翻します。君側の奸を除く形式ですね。

石閔や姚弋仲、蒲洪などが参加している後趙の最精鋭の軍に迫られた張豺は、なすすべなく捕らえられ、石世と劉太后も廃位され、その後殺されてしまいます。

こうして、石遵が皇帝になりますが、その後さらなる混乱に陥っていきます。

※冉閔はこのとき「石閔」と名乗っていますので、以下では石閔と表記します。

349年4月、石虎の死直後の地図

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石虎のバカ息子たち

ここで、一度後趙を混乱に陥れた、石虎のバカ息子たちを整理しておきましょう。

まあ、石虎の時代から、息子同士のゴタゴタがありましたので、この時代の混乱の半分は石虎のせいだと思います。

姚弋仲も「お前の教育が悪いせいじゃ」と石虎に説教をしています。

とりあえず年上から並べます。
①~④は、石虎以後、君主になった順です。

●石邃(初代太子、石宣と石韜を憎み殺害も考え、さらに石虎にも反抗的な態度を取り、処刑される)
●石宣(2代目太子、石韜を殺したので石虎から処刑される)
●秦公 石韜(石虎から寵愛されていたので、調子にのって石宣に殺される)
↑ここまでが、石虎死去以前に、冥府に旅立っている奴ら

↓下記のピンクが石虎死後、争いあったやつら(今後の動きも簡単に記載しています。)
③義陽王 石鑑(クーデターによって石遵から皇位を簒奪する)

●沛王 石沖(石遵に反抗して攻めてくる)

②彭城王 石遵(クーデターによって石世から皇位を簒奪する)


●楽平王 石苞(石遵に反抗して攻めようとするも諸事情で攻めることができなくなり、鄴に召喚される)


●燕王 石斌(石虎死後、劉太后と張豺によってはめられ、殺される)


●梁王 石挺


●汝陰王 石琨(後趙の権力を握った冉閔に対抗する)


④新興王 石祗(石鑑が冉閔に殺されたあと襄国で即位、冉閔に対抗、後趙最後の君主)


●楽安王 石炳


①斉公 石世(石宣処刑後、3代目太子になり、石虎の跡を継ぐが、石遵のクーデターで廃位)

その他
●石瞻(冉良)(石虎の養子、冉閔の父)※もちろん上記の息子たちより年上

石虎在世時に、太子が3回立てられるという混乱状態でしたが、石虎死後も石氏同士で君主の座を奪い合うという、まさに五胡十六国時代名物の、「世代交代時のカオス」を一番よく表現してくれる、救いようのない一族であります。

そして、石閔(冉閔)は石遵が君主になったあとからは、その武力で皇帝擁立のためのナンバーワンキープレイヤーとして、皇帝の座を狙う石氏から頼りにされ、石氏の争いに介入していき、その存在感を高めていきます。

石閔は、石虎の養孫になりますので、一応石氏一族ではあります。

沛王・石沖、石遵に反旗を翻す

石遵が皇帝になってすぐに、1発めの反乱が起こります。早いです。

石遵が皇帝位を簒奪したころ、沛王・石沖薊(今の北京あたり)に封ぜられていましたが、石遵のクーデターを聞き、

「先帝(石虎)の命に背き、簒奪をした石遵に罪は重い!わしがやつを討つ!」

と、5万の兵を率いて薊から出陣しました。

燕や趙のエリアに激を発し、兵を集め、常山に着く頃には、10万の兵に膨れ上がっていました。

石遵は、「今退けば罪を許すよ」という書を石沖に送り、石沖も日和って薊に退却しようとしますが、陳暹という人物が、「簒奪したような大逆人をそのままにしておけません。私だけでも南へ向かいます」などと言うものですから、そのまま進軍を継続します。

石遵はもう一度、王擢を派遣し説得しますが、石沖は聞き入れずに進軍します。

そこで石遵は、石閔と李農に10万の兵を率いさせ、石沖討伐に向かわせます。

両軍は平棘という場所で激突し、石閔は石沖を大破します。

さすがは五胡十六国時代最強の男・石閔(冉閔)です。

このあたりから石閔(冉閔)の「武力の凄まじさ」が本気を出してきます。

石沖は元氏という土地で捕らえられ、石遵から死を賜ります。率いてた兵卒も3万人以上が生き埋めにされてしまいました。

これで石沖の反乱は鎮圧されます。

東晋・褚裒の北伐

石遵体制になったあと、さっそく北で反乱が起こり、そのあと西や南でも異変が起こり、後趙の華北支配は著しく衰えていきます。

後趙国内の内乱を知った南の東晋朝廷も動き始めます。

まず桓温が安陸まで出張り、「諸将遣わして北方を経営せしむ」とありますので、後趙と東晋の国境あたりのどちらの国の所属かはっきりしないエリアを東晋のものにしようと動きます。

そのあと、後趙の揚州刺史・王浹が赴任地の寿春とともに東晋に降伏します。すかさず、東晋の西中郎將・陳逵が寿春に駐屯します。

褚裒の上表

こうした後趙内の混乱をみて、征北大軍の褚裒は、後趙を討つ軍を起こすことを上表します。

東晋朝廷は、褚裒が朝廷でも重要な人物であるということで、まず先遣隊を進軍させることにしました。そしてそれを褚裒が指示し、先に彭城(徐州)に進行させ、続いて後継として下邳に軍を進めさせます。

褚裒の北伐

そして439年7月、褚裒を征討大都督&徐、兗、青、揚、豫五州諸軍事に任命し、3万の兵で北伐の軍を発します。

褚裒が彭城(徐州)へ赴くと、すぐにその周辺の民が1日千人のペースで東晋に降伏してきました。

その後、後趙の魯郡の民も東晋につこうとし、褚裒に救援を申し込みます。

褚裒は、王龕李邁に3千の兵を与え、魯郡の民を迎えようとします。

後趙・李農の迎撃

ここで、東晋の北伐の動きを知った後趙は、李農に2万の兵を率いさせ迎撃にあたらせます。

そして、李農は王龕と代陂で戦い、王龕の軍を大破します。

この敗戦によって、進攻ができなくなった褚裒は広陵まで退却します。先に寿春を占拠した陳逵はこのままでは孤立すると、寿春の城を燃やした上、破壊して逃げます。

こうして、褚裒の北伐はあっさり失敗し、褚裒はその後、敗戦の責任をとり、自らの降格を申し出ますが、朝廷はこれを許さず褚裒を京口まで引き上げさせ駐屯させます。

こうして、東からの東晋の北伐は李農の活躍もあり、撃退されます。

しかし、後趙国内の内乱および、東晋の北伐はまだまだ続き、さらに激しくなっていきます。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 

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