五胡十六国時代の名勝負を描く 最強・冉閔 vs 名将・慕容恪 「廉臺の戦い」

冉閔

こんにちは。

五胡十六国時代のいろいろなエピソードや戦いをつまんでいこうと思います。

中国史上でも最大級の戦乱の時代だけあって、エピソードには事欠かないこの時代です。(救いようがない話のほうが多いですが・・・)

今回は、五胡十六国時代に行われた戦いの中でも、時代を代表する将同士がぶつかりあった「廉臺(れんだい)の戦い」を書きます。

この戦いは、五胡十六国時代最強(最凶)の名をほしいままにする冉魏皇帝・冉閔と、かたや五胡十六国時代最高の名将とも言われる前燕の将軍・慕容恪との間で行われた戦いです。

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冉閔

冉閔は漢人です。父の冉瞻(ぜんせん)が子供の頃、当時勢力を伸ばしつつあった後趙の創始者・石勒の捕虜になり成長するとともにその武勇を認められたことから、石勒の甥・石虎の養子になります。冉閔も生まれたときから石閔と名乗っており、若い頃からその武勇を知られていました。

後趙が338年に当時東北方面で勢力を伸ばしていた前燕に侵攻したときも従軍します。この戦いで後趙は敗北してしまいますが、石閔の軍のみは無傷で退却に成功しました。

その後の東晋軍との戦いでも活躍しています。

349年1月には10万の兵を率いて反乱を起こした梁犢を、姚弋仲(後進の建国者・姚萇の親父)、蒲洪(のちの苻洪、前秦の英主・苻堅様のじいさん)とともに滎陽で撃破しさらに名をあげます。

左手に兩刃矛を操り、右手に鉤戟を持ち、一日に千里走るという「朱龍」という馬に跨り戦場を縦横無尽に駆け巡り、「五胡十六国時代最強」と言うべきその恐るべき武力で知られていました。(どっかで聞いたような馬のエピソードだな)

石虎の死から「廉臺(れんだい)の戦い」に至るまでの石氏一族との様々な戦いでもその武勇を発揮し、五胡十六国時代最強の名は伊達じゃないところを見せつけます。

慕容恪

慕容恪は、前燕二代目・慕容皝の息子で、兄で三代目の慕容儁や弟の慕容垂(当時は慕容霸と名乗っている)とともに、慕容部が拡大していく征服戦争で活躍します。

338年の後趙・石虎の前燕侵攻戦でも奇襲からの追撃で後趙軍に大打撃を与え、その後の宇文部、高句麗、扶余との戦いでも主力として活躍します。

348年の慕容皝の死後、あとを継いだ兄慕容儁の元でも重用され、前燕軍のスーパーエースとして君臨しています。

「廉臺の戦い」に至るまでの流れ

347年頃の勢力地図

後趙の跡目争いと冉閔の魏建国

349年4月に後趙君主・石虎が没します。

後趙は、石虎が生きているときから跡目争いで揉めていましたが、石虎の息子の一人・石世が跡を継ぐとすぐに一族同士で争いはじめます。

まず石遵が後趙の首都・鄴を攻め石世から殺し即位します。

石閔(冉閔)も石遵の先鋒として石遵擁立に貢献します。

しかしその後、

石遵が石閔(冉閔)を誅殺しようとする

石閔(冉閔)、石遵を殺し石鑑を擁立。

石鑑が石閔(冉閔)を排除しようとする→失敗。

というように擁立→誅殺を狙う→失敗→廃立

のプレイを繰り返します。

この間、石閔(冉閔)は、石氏一族の軍による攻撃や、鄴城内での自身への誅殺の動きをすべて返り討ちにする恐るべき武力をみせつけます。

このように石氏と石閔(冉閔)が擁立しては殺し合うことを続け、この過程の中で漢人である石閔(冉閔)は鄴で胡族20万人の虐殺を敢行します。

そして、石閔(冉閔)が遠征中に、石鑑が鄴の奪還を企みますが宦官にチクられ、石閔(冉閔)はすぐさま舞い戻り、石鑑を殺し、自分が皇帝になり「魏」を建国します。この魏を冉魏といいます。(即位のあと、石閔は元の姓の冉に戻し、冉閔と名乗り始めます)

その後、石鑑が殺されたことを知った襄国の石祗も即位します。

これにより、鄴の魏の冉閔と、襄国に拠る後趙の残りカスの石祗との戦いになります。

前燕の河北エリア侵攻

慕容部は、二代目慕容皝の時代に遼東・遼西のエリアの覇者となり、337年に慕容皝が燕王に即位し前燕を建国します。

348年に慕容皝が没し、慕容儁が三代目に就任します。

慕容儁は349年に後趙の跡目争いによる河北エリアの混乱をみて、河北エリアへの侵攻を決断します。そして350年に慕容恪や慕容霸(のちの慕容垂)を中心に河北への侵攻を開始、薊(現代の北京)を陥落させ幽州を手に入れます。その後冀州へも侵攻し章武と河間の2郡を制覇します。

冉閔の襄国攻撃

350年11月、冉閔は後趙皇帝となった石祗を滅ぼすため10万の兵で石祗がこもる襄国を攻撃します。

攻囲は100日に及び、追い詰められた石祗は皇帝を名乗るのをやめ、趙王と名乗ることにし、前燕や姚弋仲の勢力に援軍を求めます。

姚弋仲は生前の石虎と仲が良かったこともあり、この要請に応え息子の姚襄に2万8千の兵を率いさせ援軍に向かわせます。

前燕も禦難将軍の悦綰に3万の兵を率いさせ援軍に向かわせます。

さらに冀州の信都に駐屯していた後趙の石琨も援軍に向かいます。

冉閔は家臣の制止も聞かず迎撃に向かい、援軍の三軍に三方から攻められ、また石祗も呼応して冉閔軍の後方から攻めたので、四方向からの攻撃になり、さすがの最強・冉閔も支えきれず大敗。10万を超える死者を出して退却します。

後趙の滅亡

冉閔を撃退した石祗は今度は逆に劉顕に7万の兵を率いさせ、冉魏の首都・鄴を攻撃させます。

しかしさすが最強の男・冉閔です。劉顕を迎え撃ちボコボコに大破します。

劉顕はこのとき冉閔に恐れをなし、石祗の首と引き換えに命を助けてもらいます。劉顕は襄国に退却すると石祗を殺しました。

これにより、後趙は滅亡しました。

このあと、劉顕は襄国で自立しますが、冉閔と対立し攻められ殺されてしまいます。

襄国は冉閔軍に燃やされますが、冉魏の手に落ちます。

この間前燕は、冀州の渤海郡も手に入れ、中山、常山、魯口など冀州各地の経略を続けていきます。

352年4月頃の勢力地図

最強・冉閔 vs 名将・慕容恪 「廉臺の戦い」開戦

352年4月、前燕君主慕容儁は、襄国を手に入れ常山や中山のエリアにもちょっかいを出し始めた冉閔と決着をつけるべくスーパーエース慕容恪を投入します。

(ちなみにもう一方の主力慕容霸は繹幕で割拠した段勤討伐に向かう)

冉閔出陣

前燕軍が迫ってくる報を聞いた冉閔は出陣しようとしますが、配下の将軍たちから止められます。

「鮮卑どもは勝ち続けてイケイケであります。そして我らの兵の数は少なく、やつらは大軍です。まともに当たるのは避けて、やつらの勢いが衰えたあとに兵を投入してこれを討つとよいでしょう。」

これを聞いた冉閔は激怒し、

「わしは今いる兵を率いて幽州までも平らげ、慕容儁のやつを斬ろうとしているのだ!今たかが慕容恪なぞと当たるのを避けてしまえば、人はわしのことをなんと呼ぶと思うのか?!」

冉魏の臣は「だめだこりゃ」

と、みんな自殺してしまったと言います。とんでもない状況ですな。

廉臺に至る

なんだかんだありながら、冉閔は出陣し、中山郡の安喜に陣をおきます。慕容恪もその場に向かいます。冉閔はその後常山方面に向かい、慕容恪も後を追いました。そしてその途中の中山郡魏昌県の廉臺で両軍は激突します。

最強・冉閔の武力

開戦後、五胡十六国時代最強の男冉閔はその恐るべき武力を遺憾なく発揮します。

慕容恪率いる前燕軍と10戦しすべて勝利します。冉閔とその率いる精鋭の強さに前燕軍は恐怖します。

前燕の軍隊も、この時期は遼東・遼西エリアをその強力な軍事力で制覇したばかりで、この後の中原侵攻戦でも華北東部を席巻していく強兵揃いの軍です。しかも率いる将軍は慕容恪。その前燕軍を完膚なきまでに打ち破り恐怖のどん底に叩き込む冉閔の武力は凄まじいものがあります。

名将・慕容恪の作戦

緒戦で冉閔に叩きのめされた前燕軍ですが、ここから慕容恪の名将ぶりが発揮されます。

まず味方の陣をめぐり、冉閔の恐怖を払拭します。

「冉閔は勇のものと言えども、無謀で匹夫の勇を誇るに過ぎない。率いる兵は飢えて疲れ果てており、精鋭ではあるが、使い物にならないだろう。打ち破るのは容易いことだ!」

そして、冉魏軍は歩兵が多く、前燕軍は騎兵中心であることから、冉閔は前燕軍を林の中に引き入れて討とうとしていましたが、慕容恪は参軍の高開の作戦を採用し、冉魏の兵を平地に誘い出し会戦に持ち込むことに成功します。

ここから慕容恪の華麗なる戦術が発動します。

簡単に言うと

鉄の壁(連環馬)と包囲殲滅です。

まず全軍を三軍に分け、鮮卑の弓が得意なもの5千を選び並べ、さらに鉄の鎖で馬をつなげ連環馬にし、中央に方陣を組みます。この中軍の連環馬で鉄の壁を作り(連環した馬はおそらく当時一世を風靡していた鉄騎【重装騎兵】)、兵力自体が少ない冉閔軍が決死の突撃をしてくるだろういうのを読み切り、その突撃を鉄の壁で受け止め、その間に左右に伏せておいた兵で包囲攻撃し殲滅するというものです。

包囲殲滅

そして雌雄を決する戦いが開戦します。

冉閔は朱龍という一日千里走る名馬に乗り(赤兎馬のパクリ?)、右手に両刃矛、左手に鉤戟を持ち鬼の攻撃を仕掛けてきます。あっという間に前燕の兵300人が討ち取られたと言いますので、もはや化け物です。冉閔は前燕軍の中央に大きな旗を見つけ、これこそ本陣であると考えそこへ強烈な突撃を仕掛けてきました。

しかしさすがの冉閔も鉄の壁連環馬は突破できませんでした。そこへ左右に伏せていた前燕軍の両翼が挟撃をしかけ包囲が完成、見事なまでの包囲殲滅になりました。

人中の冉閔、馬中の朱龍

慕容恪の包囲殲滅により、冉魏軍は壊滅します。

しかし、この何重にも包囲された状況から、冉閔はなんと朱龍とともにこの包囲をやぶります。大軍の前燕軍から完璧に包囲されながら突破するというもはや人間のなせる技ではありません。

包囲を抜けた冉閔と朱龍は東へ20里走りますが、そこでとうとう朱龍が力尽きてしまい、冉閔も前燕軍に捕らえられてしまいます。

この戦いにより、冉魏の主だった将は戦死し、冉魏の子の冉操は魯口に逃げます。

我、当代の英雄なり

前燕軍に捕らえられた冉閔は、薊の慕容儁の前に引き出せれます。

慕容儁は冉閔を責め立てます。

「お前は下才の奴僕の分際でどうしてでたらめにも皇帝を称したのだ?」

冉閔は応えます。

「天下は大いに乱れ、お前ら鮮卑のような夷狄禽獣の群れの類でさえも帝を称することができたのだ。ましては、わしのような『当代の英雄』であれば皇帝を称してもなんの不都合もあるまい!」

これを聞いた慕容儁は激怒し冉閔を鞭打ち300回にし、龍城に送ります。

冉魏の滅亡と、前燕の飛翔

廉臺の戦いで、冉魏政権は壊滅的なダメージを受けます。

冉閔は5月に龍城で処刑され、冉魏の首都・鄴は包囲され慕容評の手によって陥落します。352年8月、跡継ぎ冉操も捕らえられ、

ここに冉魏は滅亡します

前燕は華北東部の中心都市・鄴を手に入れ、このあと華北東部を支配する大国になりますが、その大きなきっかけは「廉臺の戦い」の勝利にあったと言っても過言ではありません。

そして、「廉臺の戦い」は、五胡十六国時代最強の男・冉閔と、最高の名将・慕容恪が持てる能力をいかんなく発揮した見応えたっぷりの名勝負でありました。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


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