こんにちは。
河西回廊の覇権国家となる北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)を書くこのシリーズですが、河西回廊の地理や歴史を2回にかけて説明したので、肝心の沮渠蒙遜が出てきません。
しかし安心してください。
今回からようやく登場します。
河西回廊の魔法使い、沮渠蒙遜の物語がはじまります。
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沮渠蒙遜
沮渠蒙遜は、「そきょもうそん」と読みます。
沮渠氏は臨松盧水胡であったそうで、晋書によれば、先祖は匈奴の左沮渠という官名であったということで、その官名が氏となったそうです。
ちなみに盧水は張掖付近を流れる今の黒河です。
沮渠蒙遜は、多くの歴史を広く知っており、天文に通じており、才知勇力で、はかりごとに優れており、弁が立ち知恵がまわり、臨機応変に物事を処置できる人物だったそうです。
KOEIゲーム的に言うと、知力が100に近い感じでしょうか。
その魔法のような知力を駆使し人生を切り開いていきます。
沮渠蒙遜登場時、河西回廊を制覇していた後涼の君主、呂光などはこの沮渠蒙遜の才を恐れていたようで、沮渠蒙遜も変に疑われてはまずいと思い、酒を飲んでは遊びほうけ、バカを演じていたようです。
沮渠蒙遜登場時点までの周辺の動き
沮渠蒙遜が歴史の舞台に登場してくる時点で、中国の他の地域の状況はどのようになっていたのでしょうか?
華北は、五胡十六国諸国を苻堅様の前秦が統一し、383年に東晋の併合を狙い、南征の軍を起こしますが、淝水の戦いでまさかの大敗を喫し、華北は再び各勢力が割拠する乱世に戻ります。
華北東部は不運の名将・慕容垂が後燕を建国、翟魏や西燕の勢力を滅ぼし、華北東部を制覇し以前の前燕の支配地以上の領土を獲得します。
しかし、慕容垂の死後、拓跋珪(道武帝)率いる北魏の魔王軍の襲撃を受け、国を割られます。
関中エリアでは、淝水の戦いあと、慕容の西燕と、姚萇の後秦が自立し、苻堅様の前秦と、バチバチ、ドロドロの死闘を繰り広げます。
西燕は、集団的ホームシックにかかり、指導者が次々と配下に殺される中、東へ帰っていきます。
そして、かつての英主・苻堅様は姚萇により捕らえられ禅譲を拒否したあと縊り殺されます。西燕東帰のあと、残された後秦と前秦が関中を舞台に激闘を続け、姚萇死後の394年に後秦は前秦を滅亡させます。
このあと、後秦は名君・姚興のもと拡大路線を取り始めます。
関中と河西回廊に挟まれた隴西の地では、乞伏国仁が西秦を建国します。
今回の舞台の河西回廊では、西域から戻ったきた呂光が淝水の戦いでの前秦の敗北と、苻堅様の死のあと、自立し後涼を建国します。
おまけで言えば、武都・陰平などがある仇池の地では後仇池が自立し、隴西にちょっかいかけたりしますが、あまり体制には影響しません。
このような、様々な勢力が自立し、周辺の国とやり合う状況が続いていました。
叔父・沮渠羅仇と沮渠麹粥の処刑
さて、397年沮渠蒙遜がいた河西回廊の張掖あたりは後涼の支配下でした。しかし、後涼は386年の建国以後、国内で反乱がたびたび起こり、対外的にも南東に位置する隴西エリアの西秦とバチバチやりあっており、非常に不安定な国情でした。
そのような中、後涼の君主・呂光は沮渠蒙遜の叔父・沮渠羅仇と沮渠麹粥の兄弟に西秦攻撃を命じます。
しかし、この攻撃は失敗に終わります。
沮渠麹粥は沮渠羅仇に進言します。
「主上(呂光)はこの最近すっかり老いぼれて讒言ばかり信じています。今西秦攻撃が失敗し、老いぼれは間違いなく讒言を信じ我ら兄弟を処刑するでしょう。これは無駄死に以外の何者でもありません。兵をまとめて西平に行き、そこから苕藋に出ましょう。そして自立をするのです。」
どうやらこの時期、呂光はだいぶ老害な存在になっていたようです。国内に反乱が続発するわけです。
ちなみに、苕藋は漢の張掖郡の番禾県のさかいらしく、沮渠麹粥は、隴西から湟水流域を西に西平に向かい、そこから祁連山脈を超え張掖あたりまで逃れましょうと進言したようです。この時代にも西平あたりから祁連山脈山中を河西回廊に抜けるルートがあったようですね。
沮渠麹粥から進言を受けた沮渠羅仇ですが、この進言を拒否します。
「お前の言うことはもっともだ。しかし我らの家は忠孝をもって西土に居続けてきたのだ。どうして我らの責任を人に負わせることができよう。わしは、他人に迷惑をかけることは忍びない」
五胡十六国時代には珍しい義士がここにいました。
しかし耄碌したクソジジイの呂光には何も響きません。敗軍の罪であっさりと沮渠羅仇と沮渠麹粥を処刑しました。
沮渠蒙遜立つ
叔父二人の処刑を聞いた沮渠蒙遜は、二人の葬儀に集まった万を超える部族たちの前で哭きながら訴えます。
「呂王(呂光)は人の道を外れた愚か者である。罪なきものを多く殺してきた。我らの部族(匈奴の左沮渠)は大昔、河西の地を虎視してきた。今こそあなたたち諸部族たちと一緒に二父(沮渠羅仇と沮渠麹粥)の恥を雪ぐときである。河西を制していた我らの過去の事業を復活させるときであると思うが、いかがか?!」
これを聞いた人々はみな万歳を叫び同意しました。
そして、盟を結び起平し、後涼の臨松郡を攻めて陥落させます。その後金山を本拠地と定めます。
この沮渠蒙遜の人をまとめ目的に向かって動かすアジテート力はさすがのものがあります。沮渠蒙遜、このあともこのアジテート力を使用してきます。
後涼の反撃と、段業の祭り上げ
沮渠蒙遜たちの反乱を聞いた呂光は息子の呂纂に兵を率いさせ、沮渠蒙遜を攻撃させます。
沮渠蒙遜は怱谷という地で迎え撃ち、
見事に敗北します!
お前は源頼朝か!?
と突っ込みたくなりましたが、沮渠蒙遜、直接戦闘はあまり強くないようです。
敗れた沮渠蒙遜は山の中に逃げ込みました。
沮渠男成の挙兵
これにより、沮渠一族の反乱も潰えるのかと思いましたが、沮渠蒙遜の従兄で後涼の将軍になっていた沮渠男成という人物が、沮渠蒙遜たちの挙兵を聞き、これに呼応し兵を起こしました。
後涼の酒泉太守を打ち破り、建康の町まで進みます。(東晋の建康とは別の町)
建康太守・段業をトップにつけ北涼建国
そして建康太守であった段業に後涼の統治がいかにクソなのかをコンコンと説き、段業をおだてあげ立てようとします。この段業は優柔不断でなかなか応じようとしませんが、援軍も来ず、郡人たちからも沮渠男成の進めに乗るように進言されたので、ようやく話に乗り、大都督、龍驤大将軍、涼州牧、建康公に推され、神璽と改元します。
397年5月、これが北涼の建国になります。
沮渠男成は輔国将軍になり国軍をまかされ、沮渠蒙遜も衆を率いて合流し、鎮西将軍に任命されます。
このあと、後涼の呂纂が攻めてきますが見事撃退します。
資治通鑑だと、段業の持ち上げに沮渠蒙遜が何もしていないような記述ですが、晋書・沮渠蒙遜載記では、沮渠男成とともに段業を祭り上げたように書かれています。
どちらにせよ、北涼という国は段業が代表になっていますが、実権は沮渠蒙遜と沮渠男成が握る体制としてスタートしたようです。
こうして沮渠蒙遜の活躍する舞台は整いました。
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【参考文献】
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川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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