こんにちは。
前回までに、401年~410年までの五胡十六国時代後期の動きを、
華北東部編
華北西部編
河西回廊まわり編
に分けて書きました。
華北東部では、北魏の河北侵攻により、後燕が割れて、後燕の北部分が遼西・遼東に逃れ、南部分が南燕を建国し山東に移動しました。
後燕は北燕に取って代わられ、南燕は東晋に滅ばされます。
北魏は、道武帝が暗殺、明元帝が跡を継ぎます。
華北西部は、後秦が最大領域になり、その後、東晋の干渉、夏の独立、西秦の独立などで、領域縮小していきます。
河西回廊では、後涼が滅び、その後後秦が影響力を及ぼしますが、南涼が姑臧を手に入れます。
北涼は、西涼に独立され、その西涼と南涼が手を組み北涼を挟み撃ちにしますが、北涼が逆に南涼に攻撃をしかけ姑臧を奪おうとしています。
このころには後秦は河西回廊から影響力を失います。
あと、ついでに言うと、東晋は益州で後蜀(譙蜀)が独立してしまい、この時代、一瞬益州に国ができています。この後蜀(譙蜀)は当然のように、「十六国」の中には入っていませんし、五胡十六国時代NO1で存在を忘れられる国です。
しかし、数年は存在します。
このような状況の中、411年~420年がはじまります。
以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。
【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏
【北の塞外エリア】
夏、北魏
【関中エリア】
前秦、後秦
【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾
【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)
※410年までに滅びた国は塗りつぶしています。
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411年~420年
華北東部
華北東部は、南燕を東晋が滅ぼし、山東エリアを手に入れましたので、それ以外を北魏が支配し、遼西エリアのてんとう虫ほどの小さいエリアを北燕が支配している状況です。一応遼東は高句麗が進出してきていますが、大勢には影響してきません。
北魏と北燕
北魏は明元帝が即位して君主になりましたが、この時代北魏は中原ではそこまで目立った動きをしていません。北燕とは使節を捕縛されるなどしたため、416年から戦っていますが、夏などともちょこちょこ戦っていたため全面攻撃までには至りませんでした。
明元帝は、北方の高車や柔然に対してたびたび攻撃をしかけます。
また、漢人官僚の崔浩などの優れた人材を使い、国力の充実に力を注ぎます。
次の太武帝期のために力をたくわえていたかのような治世でした。
北燕の馮跋もなかなかの政治手腕をもっていたようで、農業を奨励し、税金を安くしたので、燕の民は大喜びしたそうです。
てんとう虫の領土ながら、このあと、意外と長く北燕は生き残ります。
華北西部
さて、華北西部は、410年までに、
407年に夏が後秦から独立
409年に西秦が後秦から独立
と、2つの国が後秦から独立し、後秦が衰えていきます。
夏・赫連勃勃の侵攻
後秦から独立して夏を建国した赫連勃勃は、毎年のように後秦や南涼などの国を攻撃しはじめます。
夏は本拠をさだめず、騎馬遊牧民の移動して掠奪的な攻撃を繰り返すため、攻撃される側としたらたまったもんじゃなかったと思います。
しかし、413年になると赫連勃勃は統万城を築き、ここを本拠と定めました。
この統万城を作るときに、残虐クソ野郎の叱干阿利という将に責任者をまかせました。
この叱干阿利は壁の強度を確かめるため、杭を壁に打ち、一寸でもめり込むと、そこを作った工人たちを速攻で壁に埋め込んだそうです。
後秦の滅亡
さて、後秦は夏や西秦が独立し、夏の攻撃などにより国力がどんどん削られていきました。この夏による攻撃が後秦の命をかなり縮めたようです。
また、後仇池までも調子に乗って攻撃してきます。
そして、416年2月に名君・姚興が病死します。長子の姚泓が即位しますが、一族の内乱が続きます。
そのような混乱する中、東晋の英雄・劉裕が大軍を発し後秦に攻撃をしかけます。
劉裕は洛陽を陥落させ長安に迫ります。
このとき、姚萇の弟の姚紹が内乱をまたたくまに平定し、侵攻していくる東晋軍に対しても鬼の抗戦をしますが、病により亡くなってしまいます。
後秦は417年8月首都・常安(長安)を攻め落とされ、姚泓は建康に送られ斬られました。
ここに後秦は滅亡しました。
夏の関中占領
劉裕は長安を落としましたが、キープのための軍を駐屯させておくことはできなかったようです。わずかな駐留軍を残し退却しました。
その状態をみていた赫連勃勃は417年12月関中へ侵攻を開始します。
そして、418年10月には長安を包囲陥落させます。
418年12月には長安東郊の灞上で皇帝に即位します。
赫連勃勃はそのまま長安に遷都せずにあくまでオルドスの統万城を首都とし、みずからも統万城に引き上げます。
河西回廊まわり
河西回廊では南涼がおとろえていき、北涼が力をつけて来ました。
西涼も西の果てにおり、「涼」が3カ国併存していました。
そして、西秦も後秦から独立し復活してからごそごそ動きます。
後仇池もいつの間にか後秦の支配から抜けたような状況です。
西秦の動きと南涼の滅亡
西秦は復活してから積極的に動き、後秦から略陽、南安、隴西などを獲得します。
西秦はさらに南涼や吐谷渾にも攻撃をしかけます。
しかし、412年に君主の乞伏乾帰(きつぶつけんき)が兄の乞伏国仁の息子・乞伏公府によって息子10数人とともに殺されるという事件がおきます。
苑川にいて難を逃れた乞伏乾帰の長男の乞伏熾磐(きつぶつしばん)がすぐに乞伏公府を討ち即位します。
南涼は、411年2月に姑臧を北涼に奪われ、遷都した首都・楽都も北涼から攻撃されます。
さらに南で吐谷渾も攻撃してきて、西秦も攻撃してきます。
このような三面楚歌というか三面蛮歌の状況になり領土が西平、楽都などのわずかになり、414年5月に西秦に攻撃され楽都は陥落、6月に君主の禿髪傉檀(とくはつじょくだん)は西秦に降伏しました。
ここに南涼は滅亡しました。
北涼と西涼 北涼の河西回廊統一
411年に北涼は南涼から河西回廊の中心都市・姑臧を獲得し、412年10月に姑臧に遷都します。
北涼はその後も南涼を攻撃していましたが、414年に南涼が西秦によって滅ぼされると、今まで南涼と西涼の二面作戦を強いられていた状況が改善し、北涼は西涼に軍事力を向けられるようになります。
417年2月に西涼の君主・李暠が死去すると4月から攻勢をしかけます。
そして420年7月には西涼の酒泉を陥落させ、421年3月に西涼を滅ぼし、敦煌までを支配します。
西涼はここに滅びました。
※420年までの歴史でしたが、421年なのでついでに書いちゃいました。
こうして北涼は河西回廊の統一に成功します。
はじめはミジンコほどの国土だった北涼が涼が乱立する河西回廊の覇者となったのでした。
沮渠蒙遜すげえと言う他ありません。
そして東晋は・・・滅びます!!
南もほうもみてみます。
益州に405年コブのようにできた後蜀(譙蜀)ですが、さすがに長くはもちませんでした。
408年に東晋から攻撃を受けた際には奇跡的に撃退しましたが、413年に劉裕の部将・朱齢石の軍から攻撃を受け成都は陥落し、君主・譙縦も自殺しました。
ここに後蜀(譙蜀)は滅亡しました。
そして、この時代東晋も滅亡のときを迎えます。
東晋の実権を握っていた英雄・劉裕は南燕と後秦を滅ぼすことによって、その東晋内での存在感を神レベルまで高めます。
そして420年にお決まりの禅譲劇が行われ、東晋は滅亡、劉裕が宋を建国しました。
ここに東晋は滅亡しました。
420年までに各エリアの勢力がまとまる
この420年までに、華北の国がいろいろと滅びていき、各エリアで覇者となった国がある程度まとまります。
しかし、華北の主要部分を押さえる北魏が頭一つ抜けていたのは間違いありません。
その北魏が明元帝時代の「待機」でさらに力を得て、423年に拓跋燾(太武帝)が即位します。ここから北魏の怒涛の征服戦争の幕が上がります。
あ、また後仇池を忘れていましたが、あいつらは仇池の地でいつの間にかなんとなくに復活していたようです。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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