こんにちは。
367年~368年にかけての、前秦国内の反乱に対して、前燕の実権を握る慕容評の判断は動かずでした。
もしかしたら、前秦への侵攻のすきを突かれて、南から東晋の桓温が攻め込んで来るのを警戒しての判断だったのかもしれません。また急激に国土を拡大していった前燕もその国内はしっかりと統治できていなかったことも考えられ、前秦と東晋の二方面の作戦は、当時の状況では無理だったかもしれません。
このように、無理な戦争をしかけずに国内を安定させようとしたのかもしれませんが、369年に東晋の桓温が侵攻してきてしまいます。
どうせ東晋が攻めてくるんなら、前秦攻めてればよかったじゃんと思ってしまったりもするのですが、あとの祭りです。
前燕にとっては、当時中華一の名将といってもよい、東晋の大司馬(大将軍相当)・桓温を相手取った、国土防衛戦「枋頭の戦い」がはじまります。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
五胡十六国時代を描いた小説。前燕も出てくるぞ↓↓
「枋頭の戦い」
この「枋頭の戦い」ですが、基本的には「晋書」の慕容暐載記、桓温列伝、海西公紀、資治通鑑などを見て書いているのですが、それぞれによって、出来事が起こった月日の順番や、内容が微妙に異なったりしております。
よって、おおまかな流れは問題ないと思いますが、史書により少し記述が異なる部分はそのあたりも記載しながら書こうと思います。
この「枋頭の戦い」はポイントを挙げると以下の3点になります。
①水路
②兵站
③追撃戦(前燕から見て)
「枋頭の戦い」の戦いを調べる前は、「枋頭の戦い」の戦いの名前のとおり、「枋頭」という場所でがっつり大会戦でも行われたのかと思っていましたが、実態は桓温が出陣して黄河の北にある「枋頭」という場所まで進出し、そこから一転東晋国内まで退却していく一連の戦闘を含めて、「枋頭の戦い」と呼んでいるようです。
桓温の「第三次北伐」とも言います。
桓温の出陣
さて、369年3月、桓温は、江州刺史南中郎・桓沖と豫州刺史西中郎・袁真とともに前燕征伐の軍を起こすことを上奏します。
桓温はこの時点で、度重なる戦功などにより東晋での名声や実権をほしいままにしている状況でしたが、その声望をさらに高めるために前燕侵攻を企図したと思われます。(その先の東晋からの帝位簒奪も踏まえて)
ただこの出陣に際して、自らの実権をさらに固めるために策を弄します。
当時、北府軍を統括していた郗愔を自分が権力増大のための邪魔になるとみた桓温は、出陣前に郗愔の追い落としにかかります。
北府は、京口(江蘇省鎮江市)に拠点をおき、東晋にとって最重要拠点の一つで、北府軍は精強でありました。
桓温は、郗愔の息子の郗超が自軍の参軍であったのを利用し、郗愔からの偽りの手紙を朝廷に出ささせます。
その内容は、「自分は兵を率いる才能に乏し。行軍に耐えられない。老いて病気がちであるので、閑職について休養したい。」というものでした。
これにより、郗愔は哀れ会稽内史へと異動を命じられます。
こうして、桓温は郗愔の徐兗二州刺史も兼ね、北府軍も自軍に併合し、名実ともに東晋の最高権力者となり、北伐に挑みます。
4月桓温は騎兵、歩兵合わせて5万の兵を率い、南州より出陣します。
桓温の北伐プラン
桓温は、兗州より前燕を伐とうとする、と資治通鑑にあります。
兗州は、三国志の曹操がはじめの拠点としたところでもありますが、黄河の南のエリアにあたり、滎陽の町あたりの黄河から徐州まで流れる汴水の北エリアにあたります。(一部汴水の南も州域にあたる)
州内には梁山泊で有名は梁山湖の元になった巨野沢(大沢)や、そこに流れ込み流れ出す済水(流れ出すのは当時北の流れと南の流れ2つあった)などあり、川や湖が複雑にからみあう場所であったと地図でみると思われます。
兗州より伐つという記述と、実際に黄河の北「枋頭」まで兵を進めていることをみると、今回の北伐は前燕の首都・鄴を一気に狙ったものかと思われます。ただ別働隊も、今の新鄭(鄭州の南)あたりで前燕軍と戦っているのをみると、洛陽も視野に入れてた可能性はあります。
ただ兗州から黄河に入るという進軍路ではあったのですが、桓温軍には進軍するにして、難問も出てきます。
水路による輸送の困難と、それによる食料の不足です。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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