五胡十六国時代 前燕の落日⑨ 四代目慕容暐 ~慕容評の動かざること山の如し~

中国史

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前燕が慕容恪という支柱を失い、一時期東晋から奪っていた宛を中心とした荊州北部を奪い返されてしまったころ、西の関中で英主・苻堅様の元、勢力を伸ばしいた前秦でも国家存亡レベルの国難が起きます。

国内のいたるところで、反乱が続発してしまうのです。

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前秦内の一族の反乱と匈奴の反乱

その反乱を見ていくと、

まず、364年8月に汝南公苻騰が謀叛を起こします。

これはすぐ鎮圧され苻騰は誅殺されますが、この苻騰、暴虐非道であったため苻堅にクーデターを起こされ殺された前秦の先代君主・苻生の弟でした。

苻騰にはまだ弟がたくさんいたので、参謀の王猛は苻堅に苻騰の弟たちも誅殺するように進言しますが、苻堅は従いませんでした。

まあ、あとになってやっぱあのとき始末しとけばよかったという結果になります。

365年には匈奴や他の部族もが反乱を起こし、その鎮圧に苻堅が朔方に行ったすきを突いて、征北将軍淮南公・苻幼が杏城の軍を率いて長安を攻めます。反乱がつづきます。

そしてダメ押しは、367年に、陝城の苻廋、蒲坂の晋公苻柳、上邽の趙公苻双、安定の燕公苻武の4人が一斉に反乱を起こすというとんでもない事態になります。

しかも陝城の苻廋の野郎にかぎっては、治所の陝城が前燕の国境に近かったころもあり、陝城ごと前燕に降伏することを申し入れてやがりました。

このただでさえ各地で反乱が勃発する中、前燕軍まで国内になだれ込まれてしまったら大変です。まさに国家存亡という事態に、前秦と苻堅は追い込まれつつありました。

前燕朝廷内で前秦攻撃の機運が高まる

さて、上記のような前秦内の混乱と、前燕からみて関中への蓋にあたる陝城の苻廋が降伏を申し込んできたのですから、前燕の朝廷は、この機に陝城の苻廋に援軍を送り、関中にも攻め込もうぜという意見が多く出るなか、泰山のごとく動かざるジジイがいました。

そのジジイは、慕容恪亡き後、前燕の実権を握った太傅・慕容評でした。

慕容評

慕容評は、前燕の2代目、慕容皝の弟で、慕容儁・慕容恪・慕容垂・慕容徳からみると叔父さんにあたります。今上の皇帝・慕容暐からみると大叔父ですね。

慕容評は慕容皝の時代から前燕の数々の戦争で多くの手柄を挙げている名将で、洛陽攻略前の河南制圧戦でも活躍をしています。

慕容儁が没するときに、慕容恪、慕輿根とともに慕容暐の補佐役の一人に選ばれていますので、当時の前燕の柱石と言っても過言ではない人物だったでしょう。

慕容恪が没するときに、慕容恪が推す慕容垂ではなく慕容評が前燕の実権を握りますが、今までの実績からすれば決しておかしい人事ではなかったと思います。

ただ慕容評は戦争の指揮官としては極めて優秀だったと思われますが、国の舵取りをする人物としては大いに疑問がある部分があったとも思われます。

まあ、猜疑心が強く、強欲であったと書かれております。

動かざること慕容評のごとし

前燕王朝内が、陝城の苻廋救援と前秦攻撃を求める中、慕容評は頑なに「否」と答えます。

晋書では、慕容評には素から経略が無いと「悪口」を書かれています。

また、苻堅から密かに賄賂を受け取っていたので、前秦を攻撃しなかったような記述もあります。

これに関しては、もしかすると王猛あたりが、前秦国内に反乱が勃発するなか、前燕の攻撃を避けるための策として行ったのではないかと想像してしまいます。

慕容評は前燕朝廷の攻撃論を阻み、こう言います。

「前秦は今困難な状態であろうとも、まだ組みしやすい相手ではないぞ。我が朝廷は物事に明るい組織であるといえども、先帝(慕容儁)には遠く及ばないじゃろうし、我らの経略は大宰(慕容恪)の類ではまったくないぞ。前秦を平定するのは不可能であろう。我らはただ関を閉じて、軍を休めておればよい、そうすれば国境を保ち安んずるに足りるじゃろう。フォーッ!、フォッ!、フォ!」

この前秦攻撃論に否の決定が行われようとする中、慕容徳が慕容暐に直訴します。

慕容徳は、慕容儁、慕容恪、慕容垂たちの弟で、三代目慕容鮮卑ブラザーズの一人です。のちに、山東エリアを支配した南燕の初代皇帝となる人物です。

慕容徳曰く、

「先帝(慕容儁)は、天命を受け天下を統一しようとしましたが、志半ばで崩御なされました。

昔、周の文王が亡くなったとき、武王はその後を嗣ぎ立ち天下を取りました。陛下も今先帝の志を嗣いで天下を取ろうとしております。

今、逆賊の氐族どもが関隴の地に割拠し、我らと同じく王者を名乗っていますが、悪を積み重ね、禍が満ちて、お互いが疑いあっており、その仲違いは内乱を勃発し、それにより国が四分し国力が弱まっている状態です。これは天が我らに味方をしているということです。この好機を逃せば却って禍が我らに降るでしょう。古の呉越の争いを考えれば、我らの先生となるでしょう。天と人の条件が合わさった今に応じればよいでしょう。牧野の旗を我らも建てるのです。(武王の周が、紂王の殷を倒した牧野の戦い)

皇甫眞に并州・冀州の率いさせ蒲坂(并州にある黄河の渡し場。この地点では南北に流れている黄河を西へ渡れば関中に入れる)に向かわさせ、慕容垂に許昌・洛陽の兵を率いさせ陝城の苻廋の救援に向かわせ敵の囲みを解かさせましょう。そして、太傅(慕容評)には鄴の軍を率いていただき、皇甫眞と慕容垂の軍の後援を行えばよいでしょう。そして、三輔(長安を中心とした関中エリアのこと)に激を飛ばし、仁政を行うことを触れ回り、功を挙げたものを必ず賞したら、敵は我らのもとに馳せ参じましょう。今が好機なのです。陛下が聖断を下されれば、仁者に訪ねるまでも無いでしょう。」

この上奏を聞いた、慕容暐は大いに喜び、この意見に従おうとします。

しかし、皇帝・慕容暐が大いに賛成しているにも関わらず、このことを聞いた慕容評の決断はまたしても「否」でした。

続く

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

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