こんにちは。
前燕は、365年、慕容恪の指揮のもと中原支配のシンボル的な存在でもあった洛陽を陥落させることに成功します。
洛陽は、西晋の時代に永嘉の乱の勃発により、匈奴出身の劉淵の建てた漢(のちの前趙)により奪われて以来ずっと華北を支配していた異民族政権が支配していましたが、桓温の第二次北伐により数十年ぶりに東晋が奪取に成功しておりました。
その洛陽を東晋から奪い、前燕の国威は今や最高潮に登っているところでした。(ただし、支配していた華北東部の統治がうまくいってたかどうかは疑問が残る)
その前燕に暗い影を指す重大事が起こります。
それは、「大宰」として先代慕容儁から慕容暐の後見を慕容評とともに託され、前燕国の権力を握り、前燕の数々の侵略戦争を成功に導いた慕容恪の死です。
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天災により、慕容恪と慕容評が、退陣を願い出る。
366年3月に前燕の支配領域で洪水と日照りが立て続けに起こり、国内が疲弊していきます。
慕容恪は、慕容評とともに、天災被害の責任を取り、現状の地位や任を辞退することを慕容暐に願いでます。慕容暐とのあいだでごちょごちょとやり取りがありますが、慕容暐は、慕容恪と慕容評の今までの貢献や重要度から、二人が辞任することを認めず出された辞表を破り捨てます。
これにより、今まで通り慕容恪と慕容評が前燕を率いていくことになります。
このやりとりを見ていると、慕容暐のイメージが以前と変わってきました。「自分では何も決めれない子供」的なイメージが強かったのですが、現状何が重要なのかをよく理解して慕容恪と慕容評の辞任を思いとどまらせます。(慕容評はのちに君側の奸として前燕滅亡を招いてしまうが、この時点では慕容恪と並び、前燕の政治・軍事の中心人物、洛陽攻略前の河南攻略戦では主力として河南を制圧しています。)
慕容暐はかなり聡明な人物で、あえて「たられば」を言えば、少し歴史の流れが違っていれば名君として讃えられる人物に化けてたのではないかと思ってしまいました。
前燕、「木徳」の国とし、兗州を攻略する
366年3月に鐘律郎・郭欽が上奏し、後趙の水徳を承けて木徳とするように進めます。慕容暐はこれを受け入れて前燕は木徳であるということにしました。
366年10月には、前燕は撫軍将軍・慕容厲を兗州方面の攻略に向かわせます。
当時、兗州一帯は東晋が支配しており、東晋の太山太守・諸葛攸が駐屯していました。
この諸葛攸は何度か北伐を実行しており、前燕軍とは何度も戦っている人物です。(ただしその都度前燕に敗退している)
慕容厲の攻撃により、諸葛攸はあっさりと淮南(淮水の南)に退却をし、兗州の諸郡はことごとく慕容厲によって陥落させられます。
12月には、東晋の南陽都護の趙弘が前燕に下ります。慕容暐は南中郎将・趙盤を魯陽より配置替えし、宛の街(南陽エリアの中心都市)の守将にします。
こうして前燕は、洛陽攻略後も泰山周辺の兗州や、荊州北部の宛一帯も手に入れます。
慕容恪、病にかかり後事を慕容垂に託そうとする
367年になると慕容恪が病にかかり自分が余命いくばくもないことを悟ります。
慕容恪は、自分とともに慕容暐の補佐を託されている慕容評が、猜疑の心が強く、自分の死後に人望のある人物を大司馬の位につかせなくなるのではないかと思い、慕容暐の弟、楽安王・慕容臧を呼び、「今、晋と秦はすきを見て我が国に攻め入ろうとしている。慕容垂は天の資質を持つ英傑でその経略は時を超えて凄まじい。お前らの才能も良いものがあるが、国家多難の今は耐えきることができないだろう。私が死んだあとは慕容垂に兵権を統べさせよ。」と伝えます。
その後1ヶ月あまりで慕容恪はついに死去します。「五胡十六国時代最高の名将」とも称えられる人物の死が、領土拡大の一途をたどっていた前燕国にあたえた影響は大きかったと思います。
前燕の国中がこの悲報に痛惜します。
慕容恪死後
前述のように慕容恪が遺言したにもかかわらず、国の実権は慕容評が握り、慕容垂は遠ざけられます。
慕容恪の死と、慕容垂の才能を無視することにより、前燕はこの後一気に滅亡への道を進むことになります。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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