段部の段蘭の息子段龕は350年に後趙が混乱しているあいだに、青州(山東エリア)に部人たちを率いて南下していき、広固という街で割拠し、斉王を名乗ります。そして、健康に使者を送り、服属をします。
前燕が、鄴を落とし、河南方面へ経略を進める最中、東の山東エリアにはこのような勢力が割拠していました。
華北侵攻を進める前燕としてはほっておくことはできません。
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広固
この広固という街ですが、この時代から急に名前が出てきます。広固は、五胡十六国時代の初期に青州を拠点に割拠した曹嶷という人物が本拠地にしたところです。
曹嶷は石勒が勢力を築きつつあった華北東部にあって、青州に勢力を築き、前趙、後趙、東晋という当時の3代勢力の間をうまく立ち回り、勢力を保持した人物です。
広固は四方を山に囲まれ、守りやすい地形にあったことから、戦国時代の斉の首都として有名な臨淄に代わって、青州の中心となったようです。
このあと、慕容徳が建国した南燕という国の首都にもなります。
ちなみに慕容徳は、慕容儁、慕容恪、慕容垂らの弟になります。
前燕軍の青州侵攻
さて、前燕皇帝慕容儁は、355年、慕容恪と慕容塵に命じて、広固攻略に向かわせます。
慕容恪が黄河を渡るころ、段龕の弟で智勇兼備で知られていた段羆は、段龕に進言します。
「慕容恪はよく兵を用い、その兵は勢い盛んです。もし兵を城下に留めて、攻められてから降伏しても遅いでしょう。王は城を固く守っていてください。私が精鋭を率いて、まず戦いましょう。もし、我軍が勝っているなら、王は兵を率いて追撃してください。もし、我軍が負けたなら、すぐに降伏してください。千戸候の地位程度は失わずにすむでしょう。」
しかし、段龕はこの進言を入れず、強く進言を入れることを求めてきた段羆に怒り、処刑してしまいます。
そして、3万の兵を率いて、慕容格を防ぐために出陣します。
慕容恪は済水の南で段龕軍と戦闘に及び、大勝し段龕の弟の欽を斬りました。またその兵を捕虜にしました。
慕容恪は、そのまま進軍し広固城を囲みます。
慕容恪の軍略
前燕軍の諸将は慕容恪に速戦を進めましたが、慕容恪は言います。
「戦には遅攻で進めるときと、速攻で進めるときがある。もし、自軍と敵軍の戦力が拮抗し、また強力な援軍が敵にあったり、我軍の背後に患いがある場合は、速攻で敵を破らないといけない。速さこそ大きな利である。しかし、もし我軍が強く敵軍が弱く、敵の援軍も無く、戦力に問題ないときは、この状態を守り、敵の斃れることを待つとよいだろう。
兵法の言う「十囲五攻」はこのことだ。
段龕の兵はまだ心が離れていない、済南での戦いで敵の兵は鋭かった。用兵がよくなくて我軍に敗れたにすぎない。今敵の兵は天然の要害に守られた地におり、敵方は上から下まで心を一つにしている。攻守の勢力は数倍であり、軍の常法通り攻めればよい。しかしもし攻めることを進めれば、数十日立たずに、敵に勝つことはできるが我が兵にも多くの犠牲が出よう。出陣してから、我軍は休息を取っておらず、私はそれが気ががりで夜も眠れないほどだ。また、兵の命を軽んじてはいけない。ここは持久作戦を取ることとする」
このことを聞いた、諸将や兵は慕容恪に感服したといいます。強攻する場面と、あせらずゆっくり攻める場面の判断ができるというのも慕容恪が名将と讃えられる所以でしょう。
そして、広固周辺に土塁を築き堅固に固めました。
広固攻略
これにより、段龕の徐州刺史であった王騰や索頭単于の薛雲は慕容恪に降伏します。
攻囲されていた段龕は東晋に援軍を求めます。東晋は北中郎将の荀羡を派遣しますが、異民族前燕軍の強力な軍を恐れてあえて広固まで進みませんでした。陽都という街を攻め、前述の王騰を斬って軍を返します。
そうこうしているうちに、慕容恪はついに広固城を落とし、段龕は降伏しました。
慕容塵を広固に留め守将として、慕容恪は軍を返しました。
これにより、前燕は河南や山東エリアに支配地域を広げていきます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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