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前燕は、352年4月に冉閔を処刑し、8月には冉魏の首都であった鄴を落とします。これにより冉魏は滅び、華北の主要部分を手に入れた慕容儁は11月に皇帝に即位し東晋の冊封体制からも離脱します。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
同時期の他エリアの動向
352年あたりまで、石虎の死→後趙の大混乱→冉魏建国→後趙の滅亡→冉魏の滅亡、と華北の主要部分では動いていきますが、その他のエリアでも動きがあります。
関中エリア
まず、長安を中心とした関中では、氐族の符氏が独立をし、351年1月に前秦を建国し、352年1月に苻健が皇帝に即位します。
山東エリア
令支に勢力をもっていた段蘭の息子段龕は350年に後趙が混乱に陥ると、衆を率いて広固に移り斉王を自称し割拠します。
351年、東晋に使者を送り、青州をもって帰属することを請い、東晋から斉公と認められます。
河南周辺エリア
351年に後趙の部将たちが駐屯していた河南周辺エリアの廩丘、野王、許昌、衞国などの街が東晋に降伏します。
東晋
成漢を滅ぼして威名が上がりまくりの桓温に対抗して、殷浩が北伐を敢行しますが、見事に失敗に終わります。
前燕、河南方面へ侵攻をはじめる
このように、各エリアで割拠の動きがあり、複雑な状況が続きますが、前燕の南への侵略は続き、いろいろな動きが起こります。
東晋の榮胡が彭城、魯郡の街を手土産に前燕に降伏します。
常山の李犢が数千の民衆を集め普壁塁に立てこもり反乱を起こします。慕容儁は慕容恪に命じて、これを討たせました。
王午は安国王を自称したあと死にましたが、呂護という人物がその名を引き継ぎ、魯口で割拠してました。慕容恪はこれを討とうと軍を進め、前軍将軍・悦綰に軍を率いさせ呂護を追撃させ野王で降伏させました。
羌族の姚襄は、東晋に服属していましたが、殷浩と対立し354年に前燕に帰順しました。
このような動きがある中、慕容評に洛水をおさえさせ、慕容強に河南に進軍させ拠点をおかせます。
その後、前秦の河内太守・王會と黎陽太守・韓高は管轄の郡と一緒に前燕に降伏します。
また、東晋の蘭陵太守・孫黑、済北太守・高柱、建興太守・高瓫が郡とともに前燕に帰順します。
このように、前燕への反乱や帰順が次々と起こる中、前燕の南進は続きます。
山東の広固に割拠している段龕の討伐に慕容恪が派遣されます。
五胡十六国時代の英主、前秦の符堅の小説
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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唐の長安の鳥瞰図が掲載されています。
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長安の街の規模はまさに世界帝国のそれだ
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