中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。前燕の名将・名臣を挙げてみる② ~慕容皝の時代~

中国史

こんにちは。

前燕が発展していく歴史の中で、やはり有能な人材が場所を得て活躍しているということが大きいと思います。

慕容部の一族がまず有能だったのもありますし、一族以外にも有能な武将、名臣たちがこの時代に現れます。

前回は、慕容廆の時代を書きましたので、その息子、慕容皝の時代の名将・名臣たちをまとめてみたいと思います。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら

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慕容皝の時代

慕容儁

慕容皝の嫡子、慕容儁は跡を継ぐ前から武将として活躍しています。段部との戦いで段部の諸城を多く落とし、また夫余への侵略で慕容恪とともに軍を率いて侵攻し、夫余を滅ぼします。

慕容恪

慕容皝の息子で、慕容儁と慕容垂とは兄弟。慕容儁の息子の慕容暐の時代に、総司令官として、国の実権を握り大活躍しますが、慕容皝の時代にも、後趙軍との戦いで反撃時に、急襲、埋伏など優れた戦術眼で多くの戦果を挙げました。

慕容垂

慕容皝の息子で、慕容儁、慕容恪の弟。慕容暐の時代に、その才能ゆえに国を追われてしまいますが、慕容皝の時代に、軍の主力として頭角を表してきます。慕容皝の晩年に、前燕に復帰した慕容翰とともに、前燕軍の先鋒を多く努めます。高句麗侵攻や、宇文部征伐で先鋒を努め活躍します。

封弈

慕容廆の時代に、枢要という役職で他の優秀な人材とともに仕え始める渤海出身の人物です。

慕容皝の時代に司馬(大将軍)として、慕容部の軍隊を率いて、慕容皝時代の前半のほとんどの戦争で主攻として活躍しています。

慕容仁の乱のときに、乱に呼応した段部・宇文部との戦闘。乱のあとの、段部との死闘などで、慕容部の武は、封弈の武であるほどの活躍でした。

慕容皝が燕王を称したときに、封弈は国相(相国)になります。軍の司令官から国の宰相になるのですが、もともと封弈は慕容部に仕えるときに、枢要という役職でした。この枢要とは文章の才がある人が選ばれたそうで、将軍としての才能だけでなく、文官としての才能もあった人物だったようです。

張萌

侵攻してきた段部を撃退したり、段部の将軍李詠を追撃して捕らえたり、段部との戦いで活躍。

石琮

柳城の守護神。
慕容仁の乱のときに、呼応した段部が、慕容部の重要都市、柳城を囲みますが、守将石琮の踏ん張りで撃退に成功します。

陽裕

段部に仕えていましたが、石虎の侵攻時に後趙に降ります。その後、前燕、後趙、段部の戦いの最中、前燕に捕らえられ、陽裕の名声を知っていた慕容皝にすぐさま召し抱えられます。

郎中令に任じられ、その後、大将軍左司馬に任じられます。短期間で前燕の政治の中心人物になります。

前燕が龍城に遷都するとき、宮殿などの設計建設を行ったり、高句麗、宇文部との戦いで、その謀略の才で活躍します。

人間的にも優れた人物であったようで、多くの人から尊敬を受け、陽裕が死んだときは慕容皝は悲しみは相当なものだったようです。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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