中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~⑪ 遼東・遼西の完全支配の成功と慕容皝の死

中国史

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亡命していた慕容翰が帰還し、後趙の幽州付近の防備体制の隙をつき、長駆し薊の城を超え、高陽の街に至るまで進出し、3万戸を略奪し人民をさらいました。

高陽というと、幽州を通り越し、冀州にある街です。「長駆」というだけあって、相当な距離を侵攻していったのでしょう。

ただ、慕容儁の時代に、再度薊城を攻めていることから、この侵攻は、土地を占領するのではなく、略奪や人民の獲得が目的であったようです。

しかし、このような侵攻が可能になったことから、いよいよ、中原への進出が現実味をあびるところまできました。

しかしまだ遼東・遼西における前燕の周辺にはいくつかの対抗勢力が存在し、慕容皝はそれらの勢力を滅ぼすことに力をそそぎます。

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龍城の建設と遷都

慕容皝は、陽裕や唐柱などに命じて、龍城という街の建築に入りました。また、柳城を改めて龍城県としたりしています。

この陽裕という人物は、段部や後趙に仕えて、後趙と前燕が戦ったとき、捕虜として捕らえられましたが、その才能ゆえに慕容皝から重く用いられた人物です。この後の高句麗や宇文部との戦いでも、慕容皝の参謀として活躍します。

341年に慕容皝は、龍城に遷都します。

その間に、燕王と称してから数年の働きかけの末、慕容皝はとうとう東晋から正式に燕王として認められます。

高句麗討伐

遷都もして、東晋から燕王として認められた慕容皝は、長年に渡り、周辺の敵対勢力として対決していた、高句麗と宇文部の討伐に4万の精鋭を率いて乗り出します。

まずは高句麗討伐を行います。周辺部族への亡命から帰還した慕容翰と息子の慕容垂を先鋒として発します。

慕容垂はのちの後燕の創始者になる人物で、この後の前燕の多くの戦いで活躍する軍才あふれる人物です。

また長史王萬などにも1万5千の兵を率いさせ北置より進軍させます。

高句麗王の釗は慕容皝の軍が北路より来ると考え、弟の武に精鋭5万を統率さえ、北置からの軍を防がそうとしました。

また、釗みずから残った弱兵を率い、南狭よりの攻めを防ごうとしました。

慕容翰と釗は木底というところで戦い、前燕軍は高句麗軍を撃破しました。勝ちに乗じて、高句麗の首都丸都に侵入し、釗は単騎で逃走しました。慕容皝は釗の父王の墓をあばき、その遺体を奪い、釗の母や妻、宝物も奪いとりました。また、5万を超える男女をさらい、宮殿に火をかけ、丸都の街を破壊しつくして帰還しました。このような破壊活動をみた釗は、慕容皝に使者を送り貢物を送ることを条件に父王の遺体を取り戻しました。

こうして、前燕の東に一大勢力を築いていた高句麗を服属させることに成功します。

宇文部への侵攻

宇文部の指導者、宇文帰は國相である莫淺渾に命じて慕容皝討伐の兵を挙げます。それを聞いた前燕の陣営では、諸将が応戦することを求めますが、慕容皝はそれを許しません。戦いに応じてこない前燕軍を見て、莫淺渾は慕容皝が恐れをなして動けないと考えます。

そして、酒におぼれ、狩猟を楽しむなど、前燕軍に対する備えをしませんでした。

それをみた慕容皝は、「莫淺渾は奢り高ぶり、怠けること甚だしい。今こそ一戦するときだ。」と言い、慕容翰に騎兵を率いさせ莫淺渾の軍を急襲させます。莫淺渾軍を大破し、莫淺渾は身一つで逃げ、慕容皝はその兵を捕虜にしました。

慕容皝、親征をし宇文部を滅ぼす

344年、慕容皝は宇文部にトドメを刺そうと、2万の騎兵を率い宇文部討伐へ自ら向かいます。高句麗討伐と同じく、慕容翰と慕容垂を先鋒にして攻め込みました。

宇文帰は騎兵の将である渉弈于に命じて慕容翰に応戦させます。

慕容皝は慕容翰の陣に来て、「渉弈于の強さは周辺に鳴り響いている。一度退いてから対処したほうがよいだろう。」と伝えますが、慕容翰は、「宇文帰の精鋭は今ここに集結しています。この戦いに勝てば宇文帰は再起できなくなり滅びるでしょう。渉弈于は強いとの虚名がありますが、その実は与しやすい相手です。ここで退却するのは、我が軍の気を削ぐだけです。」と答え、出陣し渉弈于と決戦し、渉弈于を破り斬りました。そしてその兵をことごとく捕虜にしました。敗れた宇文帰は漠北まで逃げ、慕容皝はとうとう宇文部を滅ぼし、その領土を支配します。宇文部の部人5万人を昌黎に移し、渉弈于城を威徳城と改名しました。

再度の高句麗討伐と夫余への侵攻

慕容皝は再度の高句麗侵攻を企図し、慕容恪に高句麗の南蘇を攻めさせ勝ちます。慕容恪は守備兵を置き帰還します。また、慕容儁と慕容恪に騎兵1万7千を率いさせ、前燕の東北に勢力を築いていた夫余を攻め滅ぼし、夫余の王や部族民5万人を捕虜とし帰還します。

慕容皝は、学校を作るなどし、教育にも力を入れ、優秀なものは近侍に取り立てます。

また、旱魃のときは農民に税をもどしたり、善政を行います。

慕容皝の死とその業績

慕容皝は、狩りのときの落馬の傷がもとで、348年に52歳で死亡します。

この慕容皝の時代には、華北の覇者であった後趙の圧力を跳ね返し、段部、宇文部、夫余などの周辺勢力を滅ぼし、高句麗を服属させるなど、遼東・遼西エリアを完全に前燕の支配下におきます。

また、後趙の幽州、冀州まで襲撃し、中原への侵攻が可能なまでの国力になります。

そして慕容皝のあとを継いだ、慕容儁の代に、前燕の中原への進出が成功します。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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