中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~② 慕容廆の勢力拡大と中原との接触

歴史

こんにちは。

前回、慕容廆が、叔父の慕容耐が討たれたあと、部民たちに迎えられて285年に慕容部の族長に即いたまでを書きました。

今回は、慕容廆が周辺に勢力を広げていく過程を書きたいと思います。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら

同時期の中原の状況

ちなみに慕容廆の在位は285年~333年ですが、同じ時期の中原の状況は下記のようになります。

280年 西晋の武帝が呉を滅ぼし天下統一
290年 西晋の武帝死去
291年 八王の乱勃発(291年~306年)
304年 永嘉の乱はじまる(304年~316年)
※八王の乱と永嘉の乱の発生年、終了年に関しては諸説あり
劉淵、漢(前趙)建国 五胡十六国時代のはじまり
313年 石勒、後趙建国
329年 石勒、前趙を滅ぼし、華北統一
333年 石勒死去

西晋の世から五胡十六国時代へ移り、石勒が中原を制覇していく時期と重なります。そのとき、中原から見て東北の遼河流域は慕容部が力をつけて行っていたのですね。

西晋との争い

慕容廆の父親の慕容渉帰は鮮卑の別部、宇文部に恨みをもっていたようで、慕容廆はその恨みを晴らそうと思っていました。そこで、宇文部を討とうとしたところ、西晋の司馬炎(武帝)がこれを許しませんでした。

これに慕容廆は怒り、遼西エリアに攻め込みました。

西晋も幽州の軍に出陣を命じ、肥如というところで両軍は戦います。

その後も毎年のように昌黎の街を略奪したり、慕容部の東にいた夫余に攻め込んだりして慕容部の勢力を伸ばしていきます。

方針転換し、西晋に服属する

慕容廆はその後、西晋と争そっていても利はないと思い、これに服属する道を選びます。

これには西晋の武帝司馬炎も大変喜びで、鮮卑都督の位を与えたりします。

周辺勢力との戦いと、内政の整備

慕容部の動向を見ていた、宇文部、段部などの鮮卑の別部たちは慕容廆の名声が高まり、自分たちが慕容部に併合されるのではないかと恐れ、慕容部と争います。

慕容廆は289年に徒河の青山(遼寧省義県)に本拠地を遷し、その後294年には棘城(遼寧省北票市)に遷ります。

この本拠地移動のあと、農耕定住生活をはじめ、西晋の制度にならって法制を整備していきます。洪水が起こったときは倉を開き、食料を支給するなどの善政を敷きます。

宇文部との戦い

302年に宇文部との戦いが激化します。宇文莫圭が弟の宇文屈雲に命じて、宇文素延の兵が周辺の部族に攻め込みます。慕容廆は自ら兵を率いてこれを迎え撃ち、素延を打ち破ります。素延は怒り、数十万を号す兵力で慕容部の本拠地棘城を囲みます。慕容廆は棘城の人民を奮い立たせ、今度も自ら打って出て、素延の軍を壊滅させ、百里の距離を追い打ちし、万を超える人数を生け捕ったり、斬り捨てたりしました。

鮮卑大単于を称し、遼東での存在感を高める

このように周囲の対抗勢力とも戦いながら、力をつけていった慕容廆ですが、307年に鮮卑大単于を名乗ります。これは、自立への道を慕容廆が考えはじめたということでしょう。

このあと、309年に遼東エリアが混乱しますが、それをうまくおさめることによりさらに慕容部の勢力を大きくしていきますが、それについては次回書きます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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