オスマン帝国の領土拡大をたどる④ ~3代目ムラト1世~

歴史

オルハンの死と後継者争い

オスマン侯国の国としての組織整備や、北西アナトリアの征服、ダーダネルス海峡の対岸ゲリボルを征服し、バルカンへの進出の橋頭堡を築いたオルハンですが、1362年に没します。

オルハン死後、王子同士の後継者争いが起こります。この争いは数年に渡り、ムラト1世が勝利しますが、君主の位に完全に就くのは1360年代終わりころになります。数年に渡り、後継者争いが続いたので国力は衰退しますが、遊牧民族の流れを組むトルコ系諸族にとっては、後継者を巡り兄弟が相争う光景は日常茶飯事でした。強いものが勝ち、君主の座を実力で手に入れるのです。

ムラト1世のバルカンでの領土拡張

ムラト1世は、バルカン、アナトリアのどちらにも領土を広げていきます。

まずバルカンでは、即位後すぐの1362年にビザンツ帝国の主要都市アドリアノープル(エディルネ)を征服します。そして、ここを首都として、バルカン各地への軍事行動の拠点とします。

バルカンという地名はのちの呼び名で、当時のトルコ人たちはバルカンのことをルメリと呼んでました。ルーム(ローマ)のイル(地方)の意味です。だいたいドナウ川・サヴァ川より南の地域を指します。

1371年になるとムラト1世はブルガリアやセルビアの諸侯を撃破し、臣属させます。そしてその臣属した諸侯たちの兵を加え兵力を増やしていきます。

バルカン諸国の現状

当時のバルカンは強力な勢力がいなくなっている状況でした。

ブルガリアは14世紀初めに勢力を増しましたが、1330年にセルビアに敗れ衰退していました。

ブルガリアを破ったセルビアもステファン・ドゥシャンという名君が現れ、マケドニア、アルバニアを併合、ブルガリアを臣従させ一時はバルカンの3分の2を支配しますが、1355年にステファン・ドゥシャンが没すると一気に分裂してしまいます。

ムラト1世の内政と常備軍

ムラト1世の時代には、内政的にもオルハンの時代よりさらに整備が進んでいきます。

オルハンの時代に導入された宰相制度が新たな展開をしていきます。

オルハンの時代は宰相は内政面にのみかかわっていましたが、ムラト1世の時代になると軍事面の権限も与えられていきます。

チャンダルル・カラ・ハリルという宰相に行政・軍事の代理権を与え、それによりオスマン侯国の国としての組織化が進んでいきます。

宰相のやることが増え、宰相の人数も増加します。複数いる宰相の中でも首席宰相は大宰相と呼ばれ、この後のオスマンの歴史に良きにつけ悪しきにつけ大きく関わっていきます。

チャンダルル・カラ・ハリルは、新しい常備軍であり、その後長い間オスマン帝国の軍事上の代名詞と言ってもよいイェニチェリの創設にも関わりました。

さらなる領土拡大とコソヴォの戦い

バルカン制圧を進めるムラト1世は、1387年にマケドニアの主要都市テッサロニキを4年に及ぶ包囲戦の末落とします。

ビザンツ帝国もオスマン侯国の支援を受けた関係で属国扱いされるほど勢力を拡大させたオスマン侯国は多くの諸侯を支配していきます。そして、ヨーロッパでの勢力拡大の勢いのまま、アナトリアのゲルミアン侯国とハミド侯国を併合します。

ムラト1世はその後、ボスニアに出兵し、セルビア、ボスニア、ワラキア、ハンガリーの連合軍を1389年コソヴォの戦いで大破します。

このように、ヨーロッパ側に大きく領土を広げ、アナトリアの2侯国も併合するなど飛躍していくオスマン侯国ですが、ここで思わぬアクシデントに見舞われてしまします。

ムラト1世が暗殺されてしまうのです。

【参考文献】
鈴木 董  オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)
小笠原 弘幸 オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)
林佳代子 興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和(講談社学術文庫)

   

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