オスマン帝国の領土拡大をたどる② ~初代オスマンの周辺への勢力拡大~

歴史

こんにちは。オスマン帝国の領土拡大の過程、まずはじめは、オスマン帝国の国名にもなっている初代オスマンから書いていきます。

オスマン

オスマン帝国の祖であるオスマンは13世紀末ころより、活動を開始しています。オスマン帝国のはじまりについては、後の世にいろいろな開国・建国伝説が作られるのですが、実際には一部族の長として、トルコ人戦士たちの集団を率いる族長からはじまったようです。

群雄割拠のアナトリア

当時のアナトリアは、さまざまな部族の集団が侯国(ベイリク)として独立していました。

代表的な侯国を挙げると以下になります。

①カラマン侯国
諸侯の中で最大勢力。ルーム・セルジェーク朝の首都コンヤを中心とした勢力

②アイドゥン侯国
エーゲ海岸を支配。海軍力をもつ

③ジャンダル侯国
黒海沿岸を支配。鉱山地域を支配下におく。

④ドゥルカドゥル侯国
⑤ラマザン侯国
アナトリア南東部を長く支配

⑥ゲルミアン侯国
⑦カレスィ侯国
北西アナトリアを支配。ビザンツ帝国との国境エリア

⓼ハミト侯国
⑨サルハン侯国
⑩メンティシェ侯国

以上なような、侯国が群雄割拠している状態でした。

オスマンは北西アナトリアのソユトという街を本拠地に周囲の勢力に戦いを挑んでいきます。

オスマンの勢力拡大

基本は略奪を繰り返しながら、その騎馬による集団戦術で周辺に勢力を広げていきます。近隣の町や、キリスト教徒の領主と戦い征服し、近くのゲルミアン侯国とも戦います。

1302年に本拠地ソユトから見ると北方にあり黒海にそそぐサカリヤ川が氾濫すると川の流れが変わり、ビザンツ帝国の防衛ラインが崩れます。このサカリヤ川を西に渡ったエリアには、ニカイヤ(イズミク)、ニコメディア(イズミト)、ヘレノポリス(ヤロヴァ)、ブルサ、そしてコンスタンティノープル(イスタンブル)とビザンツ帝国の重要都市がありました。

この機会を狙ったオスマンの軍勢はマルマラ海南岸に進出し、バフェウスの地でビザンツ帝国の軍と戦いこれを破ります。その後サカリヤ川の周辺に勢力を広げます。

ブルサの包囲とオスマンの死去

ビザンツ帝国領で略奪などして、名声が高まってくると、多くの人々がオスマンの元に集まります。勢力を広げていく初期のころは、城壁を持つ都市を包囲する兵力もありませんでしたが、オスマンの名声が高まり兵も増えてきて、オスマンの晩年には、ビザンツ帝国の要衝ブルサの街を包囲できるまでになります。

しかしブルサ包囲中の途中で1324年または1326年にオスマンは没します。

ブルサの街はオスマンの跡をついだ2代目オルハンの手によって、1326年に陥落します。

参考文献
鈴木 董  オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)
小笠原 弘幸 オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)
林佳代子 興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和(講談社学術文庫)

   


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