防長侵攻スタート
防長侵攻のための根回しも終わり、いよいよ侵攻がはじまります。
弘治元年(1555年)10月5日に、元就は、陶晴賢の首実検を行ってすぐに小方(広島県大竹市)に移動しました。
そして、小方から山陽道を進み周防に入り、10月8日に岩国に着陣します。ここから大内氏の本拠、山口の町を目指します。
周防の防衛拠点
岩国から山口までの大内氏の防衛拠点としては、
①蓮華山城(岩国市)
②鞍掛城(岩国市)
③須々万沼城(周南市)
④富田和歌山城(陶氏の居城)(周南市)
⑤右田ヶ岳城(防府市)
などがありました。
これらの城は、岩国から現在の周南市の海沿いに向かって西に伸びる山陽道に沿って築城されていました。(須々万沼城は道沿いからかなり北にはずれている)
現在の山口県の周南エリアは、岩国市、柳井市、光市、下松市、周南市と海沿いにぐるっと廻るように町が続いていますが、山陽道は最短距離で岩国から周南市の海側までをつないで防府市方面に抜けており、その道に沿って防衛拠点が設けられていました。
玖珂郡平定戦
元就はまず玖珂郡の2城の攻略に取り掛かります。
10月18日に蓮華山城の椙杜隆康に使者を送り、服属を求めます。陶氏に元々不満があった椙杜隆康はすぐに降伏しました。
もう一つの玖珂郡の城、鞍掛城の杉隆泰は椙杜隆康と異なり、偽りの降伏を申し出てきます。しかし、椙杜隆康から元就に偽りの降伏であることを知らせがあり、鞍掛城は、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の手によって攻め滅ぼされます。
玖珂郡の2城を攻略した元就でしたが、そのあと、玖珂郡一帯の土豪や農民による一揆によって侵攻が滞ってしまいます。とくに玖珂郡の山間部の山代一揆は頑強に抵抗をしました。
山陰担当、吉川元春 & 瀬戸内担当、小早川隆景
この予想外の抵抗によって、防長侵攻は一時的な停滞をしてしまいます。そうなったときに心配なのは、背後の尼子氏の動きです。そこで、元就は、備後方面の押さえである山内氏に守備を固める指示を出すとともに、吉川元春を石見(島根県の西半分)方面に向かわせ、当地の毛利方の吉見正頼・福屋隆兼を支援させ、尼子氏を牽制させます。元春は期待に答え、八幡城や山吹城を服属させます。
この元春の動きと同時に、元就は小早川隆景に瀬戸内海沿岸の土豪の攻略をまかせます。隆景は村上水軍と協力をして玖珂郡海岸地域の由宇と伊賀地の一揆勢力を制圧します。さらに、上関(山口県熊毛郡)と浮島(大島郡)をも攻略します。これにより、玖珂郡周辺の海域は毛利の制圧下に入ります。
ちなみにこのときの吉川元春と小早川隆景の働きから、山陰方面の山は元春、瀬戸内方面の海は隆景の戦略方針が出てきたのではないかと思います。
玖珂郡制圧完了
寝返り工作などによる一揆内部の崩壊を誘うなどして、弘治2年(1556年)の2月になってようやく、元就は、各地の山代一揆を討滅し玖珂郡を平定します。
そして、元就、次の目標は都濃郡(山口県下松市、周南市)の平定です。しかし難攻不落の須々万沼城が毛利軍の行く手を遮ります。
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