北信の雄、村上義清との対決
佐久を平定したあと、信玄は北信の雄、村上義清との戦いに入っていきます。
村上義清は、当時、佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡などの信濃北部から東部を治め、信濃最大の領主といっても過言ではない勢力でした。しかし佐久地方は武田軍に奪われてしまい、武田の勢力はさらに村上の領地に攻め寄せてきます。
上田原の合戦
天文十七年(1548年)に信玄は村上氏の根拠地に向けて出陣し、2月1日に現在の上田市の上田原に陣を張りました。村上義清も出陣をし、千曲川を挟んで武田軍と対峙しました。そして2月14日に両軍は上田原で激突しましたが、武田軍は地の利を知り尽くした村上軍の前に惨敗を喫してしまいます。この合戦で武田軍は、板垣信方、甘利虎泰の宿老や、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの有力武将を失ってしまいます。信玄自体も手傷をおってしまいました。ただ、村上勢も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利などの武将が討ち死にし、追撃をする余力はなかったのです。
信濃侵攻を始めて、今まで連戦連勝を続けてきた信玄ですが、ここではじめて躓いてしまいます。敗北後、信玄はしばらく戦場から去ろうとしませんでしたが、3月5日になってようやく諏訪の上原城に入城しています。
信濃の国衆たちの反乱
武田軍惨敗の報は信濃中を駆け巡り、今まで占領した地域にも反乱、反抗の行動が起こってきます。4月5日には村上義清が府中の小笠原や、大町の仁科、一度武田に降伏をした上伊那福与城の元城主藤沢頼親(小笠原長時の妹婿)らとともに、諏訪地方に攻め込んできます。諏訪下社が侵入を受け、近辺に放火をされます。また、佐久地方でも4月25日に前線基地の内山城が村上から放火をされ、占領していた内山城も佐久衆に奪われてしまいます。
新しく領地になった諏訪・佐久ともに反武田の勢力が跋扈し、信玄としては相当苦しい状況になっていったと思われます。しかしその苦境も1つずつ対処していったのと、このあとの合戦による華やかな勝利で帳消しにしていきます。
6月5日には再び小笠原長時に諏訪に攻め込まれますが、これは下社の地下人が共同して迎え撃ち、撃退しています。
そして、7月10日、西方衆と呼ばれた諏訪湖西岸の土豪、諏訪氏一族の矢島氏・花岡氏らが、小笠原長時に通じて反武田の軍事行動を起こします。この結果が塩尻峠の戦いにつながります。
【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)
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