毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑦ ~吉田郡山城の戦い~

歴史

尼子軍、安芸の国に侵入

尼子詮久(のちの晴久)は、天文9年(1540年)安芸に攻め入ってき、9月4日に吉田郡山城の西北4キロメートルの風越山に着陣します。

昔からの説では、この9月の尼子軍の侵攻の前に、先陣として尼子の精鋭部隊新宮党3000が尼子国久に率いられ、備後路から吉田郡山城に向けて侵攻してくるも、吉田郡山城への侵攻路の途中で宍戸元源・隆家がその居城、祝屋城(安芸高田市)と五龍城(安芸高田市)で奮戦して尼子軍を撃退したと伝えられていました。

しかし、近年ではこの新宮党の侵攻は「なかった」いうことになっています。一次史料や信憑性の高い史料にこの話がまったく出てこないだからだそうです。ドラマや小説的には、元就を信頼して同盟した宍戸氏が奮戦して尼子最強の新宮党を追い返すというストーリーがあったほうがおもしろそうですが真相は今となってはわかりません。

吉田郡山城への籠城とゲリラ戦法

さて、尼子軍の風越山の着陣を聞いた元就は、2400の兵で吉田郡山城に籠城をします。城周辺の町人や農民8000人も入城したと伝えられています。

寡兵の元就の基本戦術としては、籠城して大内軍の援軍を待つということになります。

尼子軍は城下に放火などをしてきますが、毛利軍もゲリラ戦法で対抗します。

その後、尼子詮久は本格的に吉田郡山城を攻めるために本陣を吉田郡山城の正面に向かい合う青山・光井山に移します。

尼子軍は9月26日に南に軍を進め、後詰めとしてやってきた大内軍の杉隆宣と小早川興影を牽制しますが、元就はすかさず出陣し大内軍と協力して尼子軍を撃退します。

10月11日には、尼子軍は大規模な攻撃をしかけてきますが、これも元就による伏兵で撃退、逆に青山の本陣まで毛利軍が攻め込みます。

このように、元就はただ籠城するのではなく、切所で兵を率いて打って出て尼子軍を翻弄しています。このあたりが用兵家としての元就の凄さを物語ります。謀将としてだけでなく武将としても優れた人だったのでしょう。

大内軍到着と吉田郡山城の戦いの決着

元就がその用兵で大軍の尼子軍に一歩も引かない戦いをしているうちに、12月3日待ちに待った陶晴賢率いる大内軍の援軍が到着します。

大内軍は江の川を渡り、1月11日に吉田郡山城と尾根続きの天神尾に着陣します。

戦機が熟したとみた元就は1月13日に宍戸元源、小早川興景とともに出陣、宮崎長尾へ攻め込み尼子軍を打ち破り、さらに尼子方の吉川興経の軍と交戦します。

天神尾に着陣していた陶晴賢も出陣し、青山・光井山の尼子本陣に進撃します。陶晴賢は尼子本陣の堅陣をみて、正面からではなく兵を南方にまわし背後から攻める作戦をたてます。この作戦は見事に的中し、背後から襲われた尼子軍は大混乱に陥ります。

尼子軍は詮久の叔父、尼子久幸らが戦死するなど大打撃を受け、退却をはじめます。毛利軍はここぞとばかり追撃をかけさらに尼子方の戦死者が増えました。

戦後の安芸と元就の名声

尼子詮久の退却により、安芸の尼子方は総崩れになります。

2月には頭崎城が落城し、武田氏も武田光和の後継信真が出雲へ逃亡、家臣が残った銀山城も5月に落城。武田氏は滅亡します。大内氏と敵対していた、厳島神社神主の友田興藤も大内軍に攻められ、4月に桜尾城で自刃します。

こうして安芸の尼子方勢力は一掃され、大内の勢力が浸透し、大内義隆は幕府から安芸守護を任命されます。

元就も大内から、武田氏旧領の緑井・温井・原郷・矢賀・中山などの土地を与えられました。これにより毛利の勢力は広島湾がある山陽方面まで広がりました。

すでに安芸の国人領主の中で頭一つ抜けていた毛利氏ですが、吉田郡山城の戦いの結果により、完全に安芸の国人領主の代表といっても過言ではない存在になりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました