第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる① 合戦が起こった原因

歴史

武田信玄を語る上で外せないのが川中島の戦いです。

信濃の国(長野県)の川中島で越後の上杉謙信と第1次~第5次の5回戦いが行われた、戦国時代の合戦の中でも最も有名な合戦の一つです。

とくに、第4次川中島の戦いは、両軍あわせて8千近くが討ち死にするという大激戦になりました。

この川中島の戦いですが、第4次の戦いは有名でだいたいの内容もわかるのですが、それ以外の、第1次から第5次までの流れや合戦の内容がいまいちよくわからない部分もあるので、まとめて書いてみようと思います。

戦の原因

なぜ、川中島の戦いが勃発したのかというと、その原因は武田信玄による信濃侵攻につきます。武田信玄は家督を継いだあとの方針として本国甲斐の隣国、信濃の併合を目指します。そして、諏訪、上伊那、佐久、筑摩、小県、安曇、と次々と信濃国内の郡を平定していきます。その侵攻より2度武田軍を打ち負かした北信の雄、村上義清も支えきれなくなり、その居城葛尾城から退去し、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎と名乗っている)に助けを求めます。

当時、上杉謙信は越後を統一してまもないときで国内の安定に力をそそがないといけない時期でしたが、この要請を受け入れます。

また、村上義清からの救援要請とは別に、北信の有力国人高梨政頼や、その他の信越国境あたりの国人衆も以前から長尾氏と結びつきが強く、上杉謙信を頼ります。とくに高梨政頼は、謙信の父、長尾為景の妹を妻にしており、為景に援軍を送り助けてくれた仲でもありました。謙信としてはその高梨政頼のピンチをほっとくわけにはいきません。

よって上杉謙信としても、
●村上義清からの要請
●高梨政頼からの要請
●高梨政頼までが信濃から追放され、川中島以北の北信が武田信玄に平定されたら、
武田信玄の勢力が上杉謙信の本拠の春日山城に直接およんでくる

などの理由から、武田信玄に対抗しないといけない状況でした。

そして、天文二十二年(1553年)に上杉謙信は越後を出兵し、信濃の川中島方面に進出してきます。これにより、永禄七年(1564年)まで足かけ12年の川中島の戦いが幕をあけます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)



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