五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑳ 425年~426年 赫連勃勃死す

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

421年の北涼の河西回廊統一直後から、隣り合う北涼と西秦は戦争を続けています。

はじめは北涼が西秦を攻めていましたが、そのうち西秦が北涼を攻め始めます。

しかし、西秦は北涼・夏・吐谷渾と周辺3カ国と対立しており、包囲網をしかれている状態になっていました。

そこで、西秦君主・乞伏熾磐は北魏に貢物をし、同盟を結ぶことに成功します。

こうして、西秦は北魏との連合で、北涼・夏・吐谷渾の連合との対峙を続けていきます。

423年、424年頃の国際関係

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西秦、再度北涼の臨松郡を攻める(425年)

425年4月に、西秦君主・乞伏熾磐平遠將軍・叱盧犍などを派遣して、北涼の臨松郡を襲撃し、鎭南將軍・沮渠白蹄を捕らえ、5千戸を超える人民をさらって枹罕に戻ります。

西秦は7月にも、鎭南將軍・吉毗などを派遣して南方にいた黒水羌という部族を攻撃するなど積極的な攻勢をしかけます。

北涼と西秦の戦争状態はまだまだ続くようです。

夏の赫連勃勃の死

425年の8月に華北東部を揺るがす出来事が起こります。

今や朔方と関中を領土とする華北西部の大国、夏の君主・赫連勃勃が没します。

後秦から独立し、残虐でクソ野郎(イケメン)ながらも、その行動力や卓越した戦略眼で、夏を一代で華北西部の強国まで成長させた英傑の死は、このエリアの国々に間違いなく影響を与えるはずです。

夏は太子の赫連昌が跡を継ぎました。

426年、北涼、夏を引き込み西秦を撃つ

赫連勃勃が死去のあと、夏から圧力をかけられていた西秦がさっそく、北魏に対して、夏討伐の軍を起こしてくれるよう使者を送りお願いします。

北魏の戦略会議

北魏としても、今後の国家戦略として、北の柔然と、南の夏のどちらを先に攻撃するかの議論が起こります。

多くの臣が柔然を先に撃つべしと進言しますが、太武帝の新任篤い太常の崔浩はこう進言します。

「柔然は鳥のように集まり、獣のように逃げていくやつらです。大軍で追っても追いつくことができず、かといって、軽兵で追うと逆にやつらを制圧できない可能性があります。

それに対して、夏の土地はたかだか千里に過ぎず、政治や刑法が残虐で、民衆はおろか神からも見棄てられております。これを先に討伐するのがよいでしょう。」

この他、東北に割拠する北燕を先に討つべしだという意見も出てきますが、北魏はどう動くのでしょうか?

西秦の北涼侵攻(426年)

さて、西秦はまた北涼討伐の軍を起こし、河西回廊内に攻め込んできます。

廉川に至り、そこから太子の乞伏暮末に3万の軍を率いさせ、北涼の西安を攻めさせます。この攻撃は失敗に終わりますが、そのあと番禾を攻めます。

西安や番禾は北涼の首都・姑臧と張掖を結ぶ街道沿いにあります。西秦はこのあたりの街を陥落させ、姑臧と、北涼の西の領土(張掖、酒泉、敦煌)を分断する戦略だったのでしょうか。

沮渠蒙遜の外交による西秦撃退策

北涼君主・沮渠蒙遜も兵を起こし西秦の攻撃に対し防御態勢を取ります、

同時に、夏に使者を派遣し、空になっている西秦の首都・枹罕を攻撃するよう要請します。

夏はこれに応え、征南大將軍・呼盧古に2万を率いさせ苑川を攻撃させ、車騎大將軍・韋伐に3万を率いさえ、南安を攻撃させます。

2路から枹罕を目指す作戦です。

この報を聞いた西秦君主・乞伏熾磐はすぐさま、北涼国内から引き上げ、自国内の老人や女子供、家畜を、澆河、莫河、寒川などの土地に避難させます。

そして、枹罕左丞相・乞伏曇達に守らせ対策を行います。

しかし、南安は夏の韋伐により陥落してしまいます。

沮渠蒙遜、夏との同盟を最大限にいかし、西秦軍を退却させ、しかも西秦に大打撃を与えることに成功します。

夏の攻撃により、西秦は10月には首都・枹罕まで侵出され、枹罕の南城を制圧されます。この攻撃により、西秦君主・乞伏熾磐は本拠地を枹罕の南にある定連に遷しました。また、夏は西秦国内の湟河西平にも侵攻して、兵5千を穴埋めにし、2万の人民をさらって帰るなど、やりたい放題して、西秦は大打撃を受けます。

426年の西秦の北涼侵攻と、その隙を突いた夏の西秦侵攻の地図 ※侵攻路自体はイメージです。 西秦は、北涼の西安を攻めて落とせず、その後番禾を攻める。 夏は、2路から西秦の、苑川と南安を攻める。 南安を抜いたあと、西秦の首都・枹罕を攻撃。 さらに、湟河や西平にも侵攻する。

このように、西秦に対して、夏の猛威が奮っていたのですが、実はこのときには、北魏が夏侵攻の軍を発していたのです。

北魏が華北西部への侵攻を始め、五胡十六国時代は大きく動いてきます。

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