こんにちは。
312年、南方のツアーを切り上げ、河北に戻って来た石勒は張賓の計に従い、鄴の攻略をひとまずスルーし、その北にある襄国に入りそこを本拠と定めます。
このあと河北の経略に進んでいく石勒ですが、当時の河北エリア(大きく黄河の北として)は、太行山脈の西、并州の南から河東は漢の勢力で、并州北部の晋陽は晋の劉琨がおり、太行山脈の東、幽州には晋の王浚が勢力を張っていました。
そして幽州の南&黄河の北にあたる冀州や鄴のある司州の魏郡などは漢や晋の勢力が入り混じっている状態でした。
さらに同じ晋の臣である劉琨と王浚は仲が悪く対立しています。
そのような混乱模様の河北エリアで石勒が勢力伸長を狙います。
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石勒、劉琨・王浚に備え地固めする
312年7月、張賓の献策に従い石勒は襄国に入居、ここを本拠に定めます。
張賓はさらに石勒に献策します。
「今、我らがここ襄国にいることを、彭祖(王浚)と越石(劉琨)は非常に忌み嫌っています。恐れるべきことは、ここ襄国城の堀などの守りがまだ堅固でなく、兵糧などの物資も足りないこの状況でやつら2勢力が代わる代わる攻めてくることです。すぐに城外の食料を集め、使者を平陽(漢の首都)に送り、我らがこの襄国の地に駐屯することを伝え許可を得るとよいでしょう。」
襄国に入ったとは言え、王浚と劉琨が連チャンで攻めてくるとさすがにまずいので、手を打っていきます。独立を狙っているとは言え、一応漢の将軍なので、ピンチになったらしれっと漢に助けてもらおうという算段ですね。
各方面に手配をしていく、さすが張賓です。
石勒は、この方針に従い、各諸将に命じ冀州各地へ侵攻させ、郡県・砦などを降伏させ、そこにある食料などを襄国へ運びこみます。
そして、漢の君主・劉聡へ使者を送ります。劉聡は石勒を都督冀‧幽‧幷‧營四州諸軍事、冀州牧、進上黨公に任命します。石勒の襄国入&対王浚・劉琨の後ろ盾OKですよという意思表示ですね。
これにより、石勒の河北経略のための地固めができました。
石勒以外の勢力の動き
さて、ここでこの時期の石勒以外の勢力の動きを簡単に見てみましょう。
漢と劉琨、さらに拓跋部
一応石勒が所属していることになっている漢は、勢力の北に接する晋の劉琨の勢力(晋陽が拠点)との抗争が激化していきます。
劉琨は晋の同僚のはずの王浚とも東方面で対立しており、さらに南方面で漢とも対立しけっこう大変な状況です。
ただこの時期は劉琨が漢に対して攻勢に出ようとします。
312年7月、劉琨は州郡に檄を飛ばし、10月を期日に漢の首都・平陽を攻めようとします。
しかし、人事の失敗から部下の令狐泥が漢に寝返ってしまいます。(かれの父、令狐盛が讒言で劉琨に処刑されてしまう。劉琨の母は「このことは必ず我らに禍をもたらす」とフラブを立てる)
漢に寝返った令狐泥は劉琨勢力の内実をつぶさに劉聡に伝えます。
劉聡は大喜びでここぞとばかりに令狐泥を道案内にし劉琨の勢力へ攻撃をしかけます。
劉琨はこれはまずいと、東へ行き常山や中山の兵を集め漢に対抗しようとしますが、劉琨が留守で手薄になっていた晋陽は守っていた劉琨の部下があっさり降伏し漢の手におちます。
8月に入り劉琨も晋陽を取り戻そうとしますが果たせず、数十騎で常山に逃げます。
そして劉琨の母は令狐泥によって殺されてしまいました。
司馬鄴、皇太子となる
さて、西の関中では、関中入りしていた皇族の司馬鄴が、漢から長安を取り戻した賈疋たちに推され皇太子となります。
まだ漢の首都・平陽で今上皇帝・司馬熾(懐帝)が生きているので皇帝にはなりません。
とは言え今上皇帝は平陽で劉聡の召使い状態にされていますので、晋の残党たちは長安で臨時政府を立ち上げ漢に対抗しようとします。
劉琨、拓跋猗盧の援軍により晋陽を奪還する
晋陽を漢に奪われてしまった劉琨ですが、漢に攻められたときにマブダチの鮮卑拓跋部の拓跋猗盧(たくばついろ)に援軍を要請していました。
312年10月に拓跋猗盧が20万を超える鮮卑の強兵を率いて援軍に駆けつけました。劉琨は散卒数千で劉琨に合流し道案内をします。
そして拓跋猗盧の子の拓跋六脩の郡が漢の劉曜軍と汾東で激突し、劉曜は自ら傷を追うなどの大敗を喫し、命からがら退却します。
劉曜は一旦晋陽に入りますが、晋陽を略奪した上退却します。拓跋猗盧は追撃し、漢兵の死体が数百里に渡り横たわるなどの大打撃を漢軍に与え大勝します。
拓跋猗盧は劉琨に
「我らが早く駆けつけることができれば、君の父母は殺されすにすんだ、本当にすまなかった。」
など宣い、この時代にはめずらしい漢人と胡人の友情的なものを見せてくれます。
ということもありつつ劉琨は拓跋猗盧の力を借りなんとか晋陽を奪還することに成功します。
賈疋、死す
さて、再び関中に目を向けてみます。
司馬鄴を皇太子にし、ここから漢へ反抗をしようというアゲアゲ状態でしたが、関中エリアの晋軍の中心で、この時代の名将の一人である賈疋が関中エリアの胡族との戦いで不用意な追撃をし、谷に落ちてしまい敵に捕らえられあっさり殺されてしまうという悲劇が起きます。
賈疋イコール関中勢力くらいの関中における柱石的な将軍だったのにその人物がさらっと死んでしまうというとんでもない状況になります。
案の定、賈疋死後の関中勢力内では権力争いが起き混乱します。
ほんと晋の天命はすでに尽きているのだと思ってしまいます。
石勒vs王浚 開戦!!
晋陽周辺で、漢、劉琨、拓跋部が争い、関中でも晋勢力が混乱するという状況の中、河北エリアでは石勒と王浚勢力の抗争がはじまります。
石勒、苑鄕を攻める
この時期、游綸と張豺という部将が苑鄕という場所に数万の兵で駐屯し王浚からそのことを認定されていました。
ちなみに張豺は、後趙末期、石虎死後(349年~)の混乱を彩る人物の一人です。この312年の時期に登場しているのですね。
石勒は河北経略の手始めに夔安、支雄などの7将に苑鄕を攻めさせ、外壁を破ります。
王浚、段部の兵を出陣させ襄国を突く
この報告を受けた王浚は王昌に諸軍を率いさせ、また遼西公・段疾陸眷、その弟・匹磾、文鴦、そして從弟の末柸の段部の一族に部衆5万を率いさせ派遣し石勒の本拠襄国を攻撃させます。
王浚は胡族の軍団を自分の勢力の主攻として使っていました。
段疾陸眷の軍は渚陽の地に駐屯します。
石勒は諸将を派遣し段疾陸眷を攻撃させますが、段疾陸眷の前に敗退してしまいます。
段疾陸眷は勢いに乗り進軍、大掛かりな攻城兵器を造り襄国城への攻撃を始めます。
この攻撃に石勒の部将たちはビビり上がってしまいます。
石勒軍、軍議
この状況を見た石勒は幹部たちを収集し軍議を開きます。
石勒が言います。
「現状、我らの城の守りは固くなく、兵糧も十分ではない。やつらの兵は多く、我らの兵は少ない。また周辺に頼みとなる援軍もいない。ここは我らの勢力を結集し打って出てやつらと決戦をしようと思うがどうであろうか?」
諸将たちは答えます。
「ここは守りを固め、敵が疲弊するのを待ち城攻めに疲れた敵が退却するところを撃つのが一番です。」
完全にビビり上がっていますね。
張賓の「突門の計」
ここで張賓と孔萇が意見を述べます。
「鮮卑の中でも段氏は最も精強であり、その段氏の中で段末柸の強さは突出しており、段氏の精鋭はみな段末柸の軍に所属しております。
報告によると、今、段疾陸眷は期間限定で北城を攻めているようで、その軍の多くは離れた場所に布陣しているようです。戦闘は連日続いており、我らの軍は孤立して援軍もありません。
ここは敢えて出撃をしないで待機しておけば、敵は我らが弱っていると思うでしょう。もうしばらく出撃せずにいることです。そうすれば敵は我らが怯えていると思い油断するでしょう。その間に北城の城壁を穿ち、突門(出撃用の出入り口か)を二十四道作っておき、敵が来るのを待ちます。
そして敵の陣形が整わないうちに突門から出撃し不意をつき段末柸の帷幄を直撃するのです。やつらは震え上がり、為す術もなくなり間違いなく勝てるでしょう。段末柸を破れば、残りの段氏の軍はこちらから攻撃せずとも勝手に自滅するはずです。」
城内で怯えていると敵に見せかけ、その間に外からは見えない出撃用の門(突門)を多く作っておき、敵が油断しきったときに突門から一気に多くの兵を出撃させ敵本営を尽き敵の武の象徴を倒す。という張賓の「突門の計」ですね。
石勒、段部の兵を撃破する
石勒はこの策に従い、密かに突門を作ります。
段疾陸眷がすでに北城を攻撃していましたので、石勒は城壁に登りこれを見ます。すると敵兵が装備をとき寝ているのが見えました。そこで石勒は孔萇に命じて精鋭を率いさせ突門より出撃させ攻撃をしかけます。城壁の上では太鼓を鳴らして自軍の士気を上げさせ助けます。孔萇は段末柸の本営を攻撃しますが、さすがは段末柸、ここは勝ちきれずに退きます。そこへ段末柸が追撃をしてきて、城門に入ってきますが、石勒の兵がこれを捕らえることに成功します。これにより段疾陸眷の軍は総退却の状況に陥ります。そこを孔萇の軍が追撃をかけ打ち破り、段疾陸眷の軍の死体が三十余里に渡って並び、鎧馬5千頭を捕獲するという大勝利をあげます。
段疾陸眷は残兵を集め渚陽へ駐屯します。
王浚の勢力に攻められ、圧倒的不利な状況から、張賓の策で大勝を上げ、まず初戦は石勒が取りました。
このあとも石勒vs王浚の戦いは続きますが、この初戦で段氏の一族でありNO1猛将の段末柸を捕らえることができたのは、石勒のこの後にとってかなり大きな出来事でした。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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