石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」④ 309年~310年 劉淵の死

石勒

こんにちは。

劉淵は、劉聡を中心に南方方面の経略を進めていき、石勒を中心に東方方面の経略を進めていきました。

そして、南方方面では、劉聡率いる漢軍の主力が、晋の帝都・洛陽への攻撃をいよいよ開始しました。

しかし、この洛陽攻撃は第一次、第二次ともに見事に失敗。石勒も河北で王浚率いる晋軍に敗れるという、まだまだ晋の力は侮りがたいぞ、ということを見せつけられます。

そうこうしながら、309年も終わりに近づいてきました。

 

308年頃の勢力地図

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石勒の河北での戦い

309年10月の漢軍の第二次洛陽攻撃は失敗に終わり、劉聡や劉曜は平陽に帰ります。その中で洛陽攻撃に参加していた王弥は、洛陽盆地の南東へ抜ける轘轅関から河南方面へ出て、そのエリアにあふれていた流民を糾合します。

こいつもまた自立を匂わす怪しい動きをしています。

さて、劉聡率いる漢の主力軍の洛陽攻撃が停滞しているころ、石勒は河北で晋軍と戦闘を続けています。

309年11月に、石勒は冀州の信都を攻略し、晋の冀州刺史・王斌を殺します。この時期、冀州は晋の王浚が幅を利かせており、今後も石勒と対立していきます。

晋も車騎將軍の王堪と、北中郎將・裴憲が石勒に反撃を加えます。石勒はここは無理をせずに兵を南に引き、晋軍を迎え撃とうとします。

この動きで、晋の魏郡太守・劉矩が郡をあげて降伏してきます。

その後石勒は黎陽に行き、そこで、裴憲、王堪の軍は敗北し、裴憲は軍を棄て淮南に逃げ、王堪も黄河の南の倉垣まで退却し倉垣の地を守ります。

このように、河北方面での石勒の戦いは悪くはないのですが、王浚が居座っているのもあり、なかなかスムーズには行きません。

ただし、晋側も王浚が別の晋の部将から攻撃されるなど、内輪でバタついており、晋側は晋側で混乱しています。

曹嶷、青州へ向かう

このようなときに、漢は劉一族や重臣を官位を授けたりし組織改編したりします。その中で王弥劉淵に、曹嶷を安東將軍に推薦し、東の青州(山東半島あたり)に向かわせ、王弥の家族の保護と、その地の攻略を任せようとします。劉淵もこの推薦を受け入れます。

これにより曹嶷は青州に向かいますが、これが、彼がその後青州で12年に渡り自立勢力として活動する元になります。

310年、晋各地で戦乱になる

石勒、河北・河南を蹂躙していく

310年が明けると、石勒は黄河を渡り白馬の地を抜きます。

白馬は、三国志で、「官渡の戦い」の前哨戦として曹操と袁紹が戦った「白馬の戦い」が起こった地ですね。この戦いのときに袁紹軍の顔良が、曹操軍にいた関羽に討ち取られたりしています。

白馬を攻略したあと、石勒は河南に来ていた王弥の軍と合流し、一緒に徐州、豫州、兗州の黄河の南の城を攻略していきます。

2月に石勒は鄄城を襲撃し、晋の兗州刺史・袁孚を殺し、続けて倉垣を落とし前述の王堪を殺します。

そのあと、石勒は黄河を渡り、今度は冀州の諸郡を次々と攻めます。この攻撃により、その地の民衆9万人以上が石勒に従うことになったようです。

晋の各地で戦火が上がる

漢の主力が洛陽を攻撃し、石勒が黄河の南北で暴れているころ、晋の国土全体で戦火があがるようになっています。

巴蜀では李雄の成が、晋の羅尚とガチンコの戦いを繰り広げており、山東半島方面では、前述の曹嶷は大梁から東へ向かい、東平を攻略し、琅邪まで進みます。

さらに、江南では晋の建威將軍・錢璯が反乱を起こします。この反乱は晋の名将の一人・周玘によって鎮圧されます。

この周玘は晋末に江南で勃発した、「石冰の乱」、「陳敏の乱」、そして今回の「錢璯の乱」のすべてを鎮圧した将軍で、このことを「三定江南」と言います。

ちなみに周玘は三国志の呉の周魴の孫にあたります。

晋の各地で反乱や胡族勢力から攻撃を受けていましたが、晋も負けてばかりではなかったようです。

310年4月には晋の王浚の将・祁弘が、漢の将軍で武勇に優れていた劉霊を廣宗で討ち取るなど漢に取っては手痛い反撃を加えてきたりします。

ただ、そろそろ晋の天命が尽きてきたのか、このとき、幽、幷、司、冀、秦、雍の六州にわたり大蝗(蝗害、バッタの大量発生による大災害)が起こります。

晋にとっては、まさに踏んだり蹴ったりです。

漢、河內を攻略する

310年、7月になると、漢は劉聡、劉曜に加え、石勒も投入して、河內郡の懷県を攻めます。晋も征虜將軍・宋抽に援軍に向かわせますが、この軍は、石勒と王桑によって逆激され宋抽も討ち取られてしまいます。その後まもなく懷も陥落します。

これにより、洛陽から見てすぐ北、黄河を北に渡った河內エリアにも漢の勢力が伸び、ますます晋の防衛体制は弱くなります。

劉淵の死

河北、河南、河內などで苦しみながらも徐々に洛陽攻略に向けて有利な状況を作りつつあった漢ですが、ここで衝撃ニュースが飛んできます。

310年7月、君主・劉淵が病で没してしまいました。

匈奴の一族でありながら、若いときから洛陽に留学し、高い文化水準を持ち、さらに武勇でも優れていた劉淵は、匈奴をはじめとする胡族の反晋・反漢人のカリスマ的な存在だったと思われます。

その劉淵が没したのは、かなり漢の勢力にとってはダメージがでかかったでしょう。

さらに、劉淵が没したあと、劉和が跡を継ぎますが兄弟を排除しにかかり、逆に劉和の弟の劉聡がクーデターを起こし、劉和は殺されてしまいます。

これによって、漢は劉聡が君主になります。

けっこうなゴタゴタがありましたが、漢は一応劉聡のもとまとまり、今後洛陽の攻略に本腰を入れていきます。

劉淵は石勒にとっても引き上げてくれた恩人的な存在であったでしょうが、その劉淵が死去したことは、石勒にとっても自立への道を進むのにチャンスになっとと思われます。

劉淵死後の石勒の動きは次回から書きます。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

 

 

 

 

 

 

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