こんにちは。
426年に西秦がまたしても北涼国内に攻め込みますが、沮渠蒙遜は夏との同盟をいかし、夏に空になっている西秦国内への侵攻を要請します。
夏は軍を発し、西秦国内をまさに蹂躙する軍事行動を起こします。西秦は、首都・枹罕まで肉薄され、西秦君主・乞伏熾磐は首都を枹罕の南方の定連に遷さざるを得なくなってしまいます。
また、湟河流域の西平まで攻められ掠奪されてしまいます。
このような、夏の西秦攻撃によって西秦は大ダメージを追います。
沮渠蒙遜の策があたりましたが、この夏による西秦侵攻はさらに大きな動きを生みます。
北魏による夏侵攻戦がはじまります。
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北魏の夏侵攻(426年)
426年に夏が西秦を蹂躙をして多くの物資を奪っているとき、すでに北魏は夏国内に侵攻を始めていました。
426年、北魏の太武帝(拓跋燾)は夏の君主・赫連勃勃が死去し、夏国内が不安定になっているのを観て、夏討伐の軍を起こそうとします。
群臣どもはみな反対しましたが、太武帝の懐刀の崔浩は「今この機会を失ってはなりません。」と進言し、これにより夏侵攻が決定します。
三路よりの侵攻
北魏は夏侵攻の戦略として三路よりの侵入を選択します。
すなわち、
①司空の奚斤に4万5千の率いさせ蒲阪を攻める。
②宋兵將軍・周幾に1万を率いさせ陝城を攻める。
③その後太武帝自ら率いる軽騎2万で君子津という黄河の渡河地点を渡り、統万城を攻撃する。
蒲阪は、山西エリアから黄河を渡り関中に入るルートの黄河の渡河地点です。
陝城は、洛陽から西に進み潼関から関中に入るルートの、ちょうど洛陽と潼関の中間くらいにあります。漫画キングダムで出てきた戦国時代の秦の国門・函谷関はこのあたりにあります。
この、北魏の夏侵攻戦はなかなかおもしろいのですが、このシリーズは一応沮渠蒙遜が主役なので、簡単に流れを記載します。
第一次統万城攻略戦
太武帝自らが率いる軍は軽騎2万で統万城を直撃しようとします。
北魏軍が統万城から30里の距離の黒水あたりにいるときに、夏も君主・赫連昌自ら出陣して北魏軍と衝突しますが、この戦いは北魏軍の勝利に終わり、夏軍は統万城に退却します。
この退却戦の最中に、北魏軍の猛将・豆代田が退却する夏軍と一緒に統万城の西宮まで討ち入り西門に火を放ち引き上げてくるという壮挙を行います。
北魏軍は統万城の北で夜営をし、周囲から掠奪を行います。
太武帝は、統万城自体はすぐには落とせないと思い、一時撤収を決断し、1万を超える家屋の人民を攫い退却します。
関中侵攻軍の動き
さて、他の2路から関中をめざした部隊の動きはどうだったのでしょうか?
陝城から攻めた宋兵將軍・周幾は、夏の弘農太守が北魏軍迫るの報にびびり速攻で退却したのに乗じて、長駆軍を進め三輔(長安があるエリアのこと)へ入ります。
しかし、ここでトラブルが起き、司令官の周幾が軍中で急死してしまいます。
蒲阪から攻めた奚斤の軍ですが、これも夏の蒲阪の守将・乙斗がすでに統万城が陥落したと勘違いをし、恐れて長安に逃げ出してしまい、奚斤は蒲阪攻略に成功します。
関中方面の夏軍は、この後長安も棄て西へ逃げ安定に行きます。
これにより奚斤は蒲阪から関中に入り、長安を手に入れることに成功します。
沮渠蒙遜、速攻で北魏に使者を送る
この北魏の夏侵攻を知った沮渠蒙遜は速攻で北魏に使者を送り、北魏側につこうとします。
直前に夏に使者を送り西秦に侵攻してもらい、危機を脱したにもかかわらず、夏が北魏に攻撃されピンチになると、光の速さで夏との同盟を棄て北魏側につくという沮渠蒙遜、ゲスですがさすがの外交感覚です。
ついでに言えば、後仇池の君主・楊玄も北魏の夏侵攻を聞き、すかさず北魏に使者を送っています。
沮渠蒙遜の北涼といい、後仇池といい、小国ながら長続きする国はこのへんの外交感覚がやはり優れているのでしょう。
北魏の夏侵攻(427年)
さて、明けて427年も北魏と夏の戦いは続きます。
前年の北魏の攻略で関中の中心長安を失った夏ですが、赫連定が2万の兵で奪還に動きます。
夏軍と関中方面の北魏軍は長安で対峙をします。
第二次統万城攻略戦
関中で北魏と夏が対峙し、関中方面の夏軍が統万城へ援軍に来ることができない状態になっていることを知った太武帝は、427年4月再度統万城攻略の軍を起こします。
今回はガチ本気モードだったようで、精鋭を選び、
司徒の長孫翰等に騎兵3万を率いさせ先鋒にし、
常山王・拓跋素等に歩兵3万を率いさせ後軍にし、
南陽王・拓跋伏眞等に步兵3万に堅固な統万城攻略のための攻城兵器をもたせ、
將軍・賀多羅將に精騎3千で斥候とします。
5月には太武帝自らも平城を出陣し、総勢9万を超える大軍で統万城を目指します。
さらに、背後の柔然に備えて龍驤將軍・陸俟に諸軍を率いさせ大磧に駐屯させます。
統万城攻略の作戦
太武帝の統万城攻略の作戦はこうです。
大軍を率いているのにもかかわらず、統万城攻撃は軽騎のみで先行させ、夏軍を統万城から引っ張り出し軍を殲滅する。
統万城攻略用の攻城兵器をわざわざ準備して侵攻して来ているのにもかかわらず、統万城への攻城戦はなるべくしたくないという太武帝の方針です。
統万城という城はよほどの堅城だったことがうかがわれます。
北魏の群臣どもは反対しますが、太武帝は押切ります。
北魏軍は統万城に到着し、作戦通り少数の軍で統万城城下に進みます。
このとき、夏の将軍が北魏に降伏してきて、統万城の守備軍が城を固く守る籠城策を取っていることを聞き、太武帝は夏軍を城から引き出すために策を行います。
まず、統万城へ着いた軍を一度退かせて北魏軍が弱そうに見せます
さらに、統万城周辺の民家を掠奪してまわります。
そして、北魏軍で罪をおかしたものを夏に降伏させ、
「先行してきた北魏の騎兵部隊は兵糧が尽き、兵は野菜ばっか食べております。さらに輜重隊は後方にあり、主力の歩兵部隊もまだ到着おりません。今急襲すれば勝てますよ。」
とささやかせます。
夏の君主・赫連昌はまんまとこの手にのり、3万の騎兵歩兵を率いて城を出て、北魏の騎兵を攻撃しようとします。
北魏軍、夏軍を殲滅させる
太武帝は、騎兵を統万城から退かせ、夏軍を引き入れます。
ちょうど風雨が激しくなり砂が舞い上がりあたりの視界が暗くなりましたが、北魏軍はこれも利用し、騎兵を左右に分け、夏を引き込み一気に包囲殲滅にもっていきます。
夏軍はこの北魏の包囲網の中に突っ込んでいき「大潰」されます。
太武帝はこのとき自らも陣頭に立つも、馬がつまずき地に落ち、夏軍に捕らえられそうになりますが、拓跋齊という人物が身をていして助けられます。急死に一生を得るのですが、しかもそのあと、敵将の斛黎文を自ら討ち取り、さらに夏の騎兵10数人を討ち、流れ矢を体に受けるというおおよそ君主とは思えないバーサーカーぶりを発揮します。
この太武帝の奮戦もあり、夏軍を大破した北魏軍はそのままの勢いで統万城の北まで追撃していきます。
この追撃戦で、夏は君主・赫連昌の弟なども戦死し、戦死者1万を超える大敗になります。
赫連昌は統万城に入ることができず、関中の上邽に逃げていきます。
あとは統万城を落とすだけですが、ここで太武帝は再度バーサーカーぶりを発揮します。
目立たたない服に着替えて、城へ退却する夏軍と一緒に統万城内に切り込んで行くのです。
もうここまで行くと、草原を駆け回っていた拓跋鮮卑の血が煮えたぎったとしか説明がつかない行動(蛮行)です。
気づいた夏の兵に城門閉められてしまいますが、なんとか脱出に成功します。
まあ多少のトラブルはありましたが、統万城の夏軍はほぼ殲滅されていたようで、日を改めて、北魏軍は統万城への入城に成功します。
これにより、夏は首都を落とされ、旗揚げの地、オルドスも北魏に奪われ領土が関中のみになってしまいます。
その関中も北魏の別働隊の攻撃が継続しています。
昨年まで西秦をボコボコにしていた大国があっという間に、国土が半分以下になってしまいました。
これも五胡十六国時代の一面です。
そして、北魏の破壊力は相変わらず凄まじいです。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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