こんにちは。
最近、コロナのせいで城巡りできない状態でしたが、渋谷に行く用事があったので、澁谷城跡に行ってきました。
タイトルにもあるように、この澁谷城、「城」としての跡が「跡形もない」城です。(おそらくは少しはあるがほぼわからない)
ただ、私はほぼ痕跡がない城跡でも、そこに城があったという事実だけで興奮できますので、このような「跡形もない城」は大好きなのです。
お城散策について、おすすめの漫画
澁谷城は2巻に掲載されています!!
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澁谷城の場所
さて澁谷城ですが、その名の通り東京都渋谷区渋谷の渋谷駅から徒歩5分くらいの場所にあります。
渋谷駅の東側の渋谷警察署の裏に金王八幡宮という神社がありまして、これが澁谷城跡になります。
東京有数の繁華街渋谷のビル郡の中にある「都会の城」です。
ただ逆に交通の便的には最高だと思います。
澁谷氏と澁谷城
澁谷城は、この地を拠点とした澁谷氏の居城でした。
澁谷氏の祖の河崎基家の代に、源義家により1092年にこの地に八幡宮が鎮座されました。
基家の子・重家の代に、禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より澁谷の姓を賜り、この地に館を作り居城しました。
これが澁谷城のはじまりでもあり、渋谷の町の発祥でもあるようです。
澁谷氏はなかなかの武辺者を生む一族であったらしく、前述河崎基家は1087年の「後三年の役」で源義家の軍に加わり武功を挙げております。
その子重家は禁裏の賊の退治の武功あり、その子の澁谷金王丸常光は、金王八幡宮のリーフレットによると、源義朝(源頼朝の親父)に従い1156年「保元の乱」で大功をたてたとあります。
金王丸は、その後剃髪し土佐坊昌俊と名乗ります。
壇ノ浦の戦いのあと、源頼朝から謀反の疑いをかけられた源義経の館を襲撃したのはこの土佐坊昌俊で、ここで返り討ちにあい勇将らしい立派な最後を遂げたとあります。
よく聞く源平合戦の顛末では、源義経を襲った悪役ぽく描かれてますが、金王丸は頼朝側から見ると武勇に優れた勇将という扱いらしいです。
澁谷氏は、その後1524年に北条氏綱と上杉朝興の間で起こった「高輪原の戦い」で上杉方につき、北条軍の別働隊によって澁谷城は焼き払われてしまったようです。
ちなみに現在金王八幡宮として残る社殿は、1612年の徳川二代将軍・徳川秀忠の世に、青山忠俊と春日局によって造営されたそうです。
春日局は三代将軍家光の乳母で、青山忠俊も家光の守役であり、家光が三代将軍になれるよう、この八幡宮に祈願したそうです。
地理的な位置
この澁谷城は、東に鎌倉街道(現在の八幡通り)が通り、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷があるという場所に建てられています。
渋谷川の谷から青山方面に登る斜面の途中にあり、その斜面からもポコっと周囲から浮いた地形上に作られています。
下記の澁谷城の模型を見ても、防御的に優位な場所にあるのがわかります。
また、数箇所に湧水も湧いており居城の条件として好い場所だったようです。
また、江戸名所図会にも、金王八幡宮は掲載されており、その境内は現在よりだいぶ広かったのではないかと思われます。
江戸のさまざまな名所の挿絵が掲載されてて、
現在の東京の地点と比べてみてもおもしろい
金王八幡宮も掲載されています。
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境内のスポット
渋谷城跡こと金王八幡宮の境内はそんなに広くはなく、城としての遺構は皆無ですが、いくつかのスポットがあります。
「澁谷城 砦の石」という戦国時代の砦の石が残っていたり、源頼朝ゆかりで、江戸三名桜と言われた「金王桜」や、前述、春日局と青山忠俊が造営された御社殿などあります。
ちなみに「澁谷城 砦の石」はパワースポットとして知られているようです。
また、渋谷の街なかにあるとは思えないほどの緑に囲まれた敷地でありますので、散歩がてらよってみるのもよい場所です。
「跡形もない城」も、行ってみると城としての遺構が残ってなくても、なぜこの場所に地形的位置的に城が建てられたかや、城でなくなってもスポットとしてさまざまな要素が残っているなど、いろいろと楽しめる要素はあり、大変おもしろいのです。
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