五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑪ 北涼 vs 南涼3 沮渠蒙遜、姑臧を獲得

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

周囲を後秦、南涼、西涼と囲まれ苦しい領国経営を強いられてきた北涼の沮渠蒙遜ですが、407年あたりから追い風が吹き始めます。

407年6月に半グレ国家・夏が劉勃勃(赫連勃勃)の手によって建国されると、華北西部の超大国・後秦の国境を荒らし回り、じわじわとその国力を削っていきます。

また、夏は南涼にも言いがかりをつけ強襲し、南涼軍に壊滅的なダメージを与えます。

この夏の暴れっぷりが、北涼を圧迫し続けてきた、後秦と南涼を弱らせるという結果に繋がり、北涼に光明がさしてきます。

このような追い風が吹いてきた状態で沮渠蒙遜はどのように動いていくのでしょうか?

 

407年頃の華北西部勢力地図

407年頃の全国の勢力地図

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後秦も南涼を攻める

夏の劉勃勃(赫連勃勃)が暴れまわり、後秦と南涼が被害を受けている状況でしたが、408年に今度は後秦が南涼を攻めます。

南涼はこのとき後秦に服属して舎弟になっている状態でしたが、南涼の禿髪傉檀は407年に同じく後秦に服属している西秦の乞伏熾磐を誘って、後秦に反抗しようとしました。

この件は、乞伏熾磐が後秦にちくり実現しませんでしたが、だいぶ後秦に対して反抗的な態度を取り始めていました。

後秦君主・姚興は、南涼が夏に攻められて弱っているのと、さらに南涼国内で謀反が起こっている状態を見て、南涼攻撃を決めます。

南涼の禿髪傉檀にとっては、まさに自業自得とは言え、一気に滅亡の淵に追い詰められてしまいました。

この後秦の侵攻を禿髪傉檀はなんとか退けることに成功しますが、南涼、後秦と立て続けに攻められ国力の消耗は明らかです。

後秦から南涼が独立

後秦の攻撃を退けた禿髪傉檀は、自分たちもダメージを受けましたが、攻めてきた後秦もかつての力がなくなって来ていると思い、408年の11月に涼王を称します。これで南涼は後秦から自立し、再度独立国として割拠しました。(後秦服属中でもほとんど自分たちの意思で軍隊動かしていましたが)

西秦が後秦から自立する

さて、かつて隴西エリアに割拠しており400年に後秦に降伏し、一旦滅びていた西秦ですが、君主である乞伏乾帰やその息子の乞伏熾磐は、西秦滅亡後、後秦の武将として後秦の戦争に参加していました。

しかし前述の夏の建国により、後秦が衰えてくると、自分たちも自立の機会を探っていました。

409年の7月に、乞伏乾帰は度堅山で秦王に即位し、後秦より独立し再度西秦を復活させます。

一度滅亡してのに再度自立するという五胡十六国時代でもめずらしいカムバックを決めた西秦はこれまたおもしろい国家です。

西秦は410年には隴西の重要拠点、金城(蘭州)を後秦から奪うなど、その戦闘力を見せてきます。

沮渠蒙遜、いよいよ攻勢をかけ始める

夏の攻撃による、後秦、南涼へのダメージ、後秦から南涼と西秦の自立と、沮渠蒙遜の北涼の周辺で大きな動きがあり、ライバル国が国力を削られるという状況が続きました。

今まで張掖周辺の狭い領土に押し込められながらも、巧みな外交と、攻め込まれたときの防衛戦争の強さにより、なんとか滅亡せずにこらえてきた北涼ですが、じわじわと攻勢に出始めます。

ただその前に、409年、410年と再度南涼から攻撃をかけられます。

南涼は夏に攻められけっこうなダメージを受け、国力減らしながらも、まだ北涼に遠征する力はあったようです。

409年の戦い

409年には、南涼は左将軍の枯木(弱そうな名前だ)を派遣し、北涼国内に侵攻、臨松の千余戸を劫掠し引き返します。

沮渠蒙遜もすかさず南涼に攻め込み西郡と姑臧の間にある顕美まで至り、数千戸をさらい帰ります。

南涼の将軍・倶延が再度沮渠蒙遜に攻撃をしかけますが、沮渠蒙遜はこれを大破しました。

410年の戦い

410年3月に南涼の禿髪傉檀は、自ら5万の兵を率いて北涼に攻め込みます。

沮渠蒙遜も迎撃し、窮泉というところで両軍は激突し、北涼が南涼を大破しました。

沮渠蒙遜、さすがの防衛戦です。

ここまで、北涼と南涼の戦いは、406年、407年、409年、この410年と激突して来ましたが、基本は南涼から北涼を攻めるというものでした。

しかし409年の戦いから変化が起こっています。北涼からも南涼領内への侵攻がはじまるのです。

そして、この410年の南涼からの侵攻を退けたあと、禿髪傉檀が単騎で逃げていったのを見た、沮渠蒙遜はこの好機をとらえ、返す刀で南涼へ侵攻を開始します。

そのまま南涼国内を進軍し、河西回廊の最重要都市・姑臧を包囲します。

410年頃の勢力地図

姑臧攻防戦

姑臧

姑臧はいわゆる河西四郡の武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡のうち武威郡の中心都市であり、河西回廊の中でも一番の主要都市でした。

中国史上でも涼州の中心といったら姑臧でした。

後漢の姑臧城は周囲4000メートル級の都市だったいいますから、かなりの大きな城壁都市だったのでしょう。

五胡十六国時代には、前涼、後涼、南涼、北涼と4つの国が都をここに置いています。

沮渠蒙遜の姑臧攻囲

沮渠蒙遜が姑臧を包囲すると、姑臧の住人たちは恐れ、漢人、胡人問わず1万余戸が北涼に降伏しました。

禿髪傉檀は、不利な戦況を恐れ、北涼に人質を送り和睦しようとします。

沮渠蒙遜も現時点での姑臧攻略は時期尚早と考え、この和睦をのみ、一旦軍を引きました。

南涼、姑臧から楽都へ遷都する

北涼が軍を引いたあと、南涼国内では右衛将軍の折堀奇鎮が姑臧の西南の長寧川の西北にある石驢山で叛乱を起こします。

禿髪傉檀はこの叛乱に乗じて沮渠蒙遜が攻めてくることと、南涼の本拠エリアの嶺南(河西回廊の南の山脈を超えた湟水流域エリア)が折堀奇鎮に獲られることを恐れ、湟水流域の楽都へ都を遷します。

南涼としては、せっかく獲得した悲願の地・姑臧でしたが、国のベースとなる湟水流域が他勢力に奪われるのはなんとしても避けたかったのでしょう。

禿髪傉檀は姑臧を部下に守らせ城を出ますが、禿髪傉檀が城を出てすぐに姑臧城内で叛乱が起こり、焦朗という人物が涼州刺史を自称し独立してしまいます。焦朗は沮渠蒙遜に降伏したようですが、勢力としては姑臧に割拠したままだったようです。

沮渠蒙遜、西涼に一撃を加える

さて、南涼が姑臧を失いつつあるころ、沮渠蒙遜は、反対方向の西涼に対し攻撃をしかけ馬廟という地で西涼軍を打ち破ります。

この戦で捕らえた将軍の身代金として金銀を西涼からふんだくり、ついには西涼と同盟を結ぶことに成功しました。

元々西涼は南涼と同盟を結び、北涼は西涼と南涼に挟み撃ちにされ危険的な状況だったのですが、南涼が衰えた機を見て、西涼にも一撃を加え同盟を結び、これで姑臧への再攻撃に後顧の憂いはなくなりました。

411年沮渠蒙遜、ついに姑臧を手に入れる

411年2月に、降伏したはずの焦朗がまだ姑臧に駐屯しているのを見て、沮渠蒙遜は姑臧攻略の軍を発します。あっという間に姑臧を陥落さえ焦朗を捕らえます。

そしてそのまま南涼の楽都まで攻めていき、楽都を包囲します。

この戦いでは楽都まで陥落させることはできませんでしたが、禿髪傉檀の子の安周を人質に取り、退却しました。

沮渠蒙遜、姑臧を手に入れ河西回廊の覇者の道を歩みはじめる

411年の戦いによって、沮渠蒙遜はついに河西回廊の主要都市の姑臧を手に入れました。

張掖周辺の狭いエリアまで領土が減り、周辺を敵国に囲まれたどん詰りの状態から姑臧獲得まで持ってきたその手腕は見事としか言いようがありません。

しかし沮渠蒙遜の河西回廊の覇者への道はこれからはじまります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)


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