五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる  「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ④391年~400年 東部編:後燕の華北東部制圧と北魏の大侵攻

五胡十六国の流れ

こんにちは。

淝水の戦いのあと、全国各地で各勢力が割拠をし、390年までに、

後燕、西燕、翟魏、北魏、後秦、西秦、北涼、後仇池などの国が華北に建国されました。

また、前秦は苻堅様死後、苻丕→苻登と君主が代わり、関中の地方政権まで領土を減らしながらも、後秦と激しい戦いを繰り広げます。

南の東晋も、黄河のラインまで領土を奪還していき、西では益州も取り戻しましたが、謝安などが死去し、領土拡大も手詰まりになっていました。

そのような80年代が終わり、時代は90年代に入っていきます。

390年頃の勢力地図

以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。

【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、
翟魏

【北の塞外エリア】
夏、北魏

【関中エリア】
前秦、後秦

【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾

【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)

※まだいない国は網掛けしています。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら(前期中心)

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら


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391年~400年(華北東部編)

90年代は、関東では、滅びる国が出てくるのと、塞外で力をつけて北魏がその圧倒的武力を背景に河北に侵攻を開始し、大きく勢力が変わってきます。

関中でも前秦と後秦の激闘に終止符が打たれます。

西のほうでも、後涼から独立する勢力が出てくるなど大きな動きがあります。

今回は東部のみ書きます。

関東エリア&塞外エリア

後燕が翟魏を滅ぼす。

慕容垂率いる後燕は、優秀な若手慕容たちの活躍もあり、華北エリアに勢力を広げていきましたが、滑台などを中心に、黄河流域に独自の勢力を築いていた翟魏に攻撃をかけます。

翟魏は、後燕に何度も降伏したり離反してりしていましたが、392年に慕容垂みずから攻撃をしかけ滅亡させました。

翟魏の指導者・翟釗は西燕の長子に亡命しましたが、後日反乱を企てて殺されました。

こうして、後燕は翟魏が支配していた河北と河南のエリアを手に入れました。

後燕が西燕を滅ぼし、華北東部を制圧する

慕容垂は、393年同じ慕容一族の慕容永が支配する西燕を制圧することを決定します。

自分の目の黒いうちに残しておくといろいろと面倒な隣にある同族の国を滅ぼしてしまおうということです。

394年2月に後燕は兵を発し、太行山脈を超え西燕の国内に侵攻していきます。

慕容垂の用兵が冴えを見せ、慕容永を捕らえ処刑し、西燕を滅ぼしました。

西燕を滅ぼすことに成功した後燕は、これで并州エリア(現在の山西省)も領域に加えました。

そして394年10月には、黄河下流あたりを渡河し、東晋が支配していた青州、兗州を攻略していき、高平、泰山、琅邪の諸郡を獲得し、海にまでたどり着きました。今の山東半島あたりを制圧し、これで後燕は前燕を超える版図を支配するまでになりました。

ここが後燕のピークになります。

北魏の膨張

さて、後燕が勢力拡大しているあいだ、并州より北にある塞外エリアでは、北魏の拓跋珪が、後燕の助けを借りながら塞外エリアで各勢力をつぶしながら勢力を拡大していきました。

391年頃までに、劉顕の勢力、オルドスの宿敵・劉衛辰を倒し、柔然、高車なども撃破していき、オルドスあたりからモンゴルにかけての範囲を勢力下に置いていきました。

この拓跋珪というやつも、戦争の天才と言うべき人物だと思います。

かなり力をつけた391年の時点で、北魏は後燕と断交する姿勢を取り、両国の間は険悪になっていきます。

勢力圏が接する状態になっていましたので、国境あたりでの紛争も増えてきました。

394年頃の勢力地図

後燕vs北魏 参合陂の戦い

このような状態の中、395年5月慕容垂は太子・慕容宝に10万の兵を率いさせ北魏討伐に向かわせます。

北魏は一旦オルドスに兵を引き、両軍は黄河をはさみ対峙します。

10月になって気候条件が悪くなり、後燕軍は後退し、参合陂という地に宿営しました。

11月になると天候の急変により黄河が凍結し、北魏軍は凍った黄河を渡り一気に後燕の陣を急襲し、後燕軍を壊滅させました。

8割~9割の兵がやられたそうで、この戦いで河北における北魏と後燕の力関係が逆転したというこの後の歴史に大きな影響を与える戦いでした。

巨星・慕容垂堕つ

参合陂での敗戦を知った慕容垂は、396年みずから兵を率いて北魏を攻めます。

密かに兵を進め、北魏を急襲し、重要都市・平城(のちの首都)を陥落させます。

このとき慕容垂は70歳を超える高齢だと思いますが、もはや神レベルの軍略です。

しかし、慕容垂と言えども病には勝てなかったようです。

参合陂まで来た所、ここで吐血、後燕軍は兵を引き、中山に戻る途中の上谷という地で没しました。

五胡十六国時代後期を彩った巨星がここに堕ちました。

北魏の大攻勢。後燕が真っ二つにされる

慕容垂亡き後、後燕は太子の慕容宝が跡を継ぎますが、拓跋珪との軍才の違いは明らかでした。

396年9月には北魏は大挙後燕の領土に侵攻を開始し并州を獲得します。

396年9月頃

後燕内部でも、一族の反乱が発生し、慕容宝は12月に中山から龍城に遷都してしまいます。

10月には中山も北魏に落とされ、後燕の領土は北魏により真っ二つにされてしまいます。

慕容宝は398年に中山奪回を試みますが失敗、5月に龍城で舅の蘭汗によって殺されてしまいます。(一時的に後燕滅亡)

7月に今度は蘭汗が慕容盛によって殺され、後燕は再興します。

しかし後燕はもはや遼西と遼東のエリアを支配するだけの小国になってしまいました。

慕容垂没後2年でここまで領土が小さくなるという恐るべき事態です。

399年頃の勢力地図

南燕の建国

北魏の侵攻により、領土を南北に割られてしまった後燕ですが、慕容垂の弟の慕容徳は当時鄴にいました。慕容徳は滑台に移りそこで398年1月燕王と自称しました。

これが南燕の建国です。

後燕まだ滅びてないのに、勝手に南燕なんか作っちゃいました。

慕容徳はその後399年8月に山東の広固に移りここを都とします。

399年頃の勢力地図

そして400年1月に皇帝に即位します。

400年までの華北東部の状態

華北東部は上記のように400年までに大きく動きました。

後燕が翟魏と西燕を滅ぼし、華北東部を制圧した瞬間に、北魏が大侵攻を開始し、後燕は分裂、南の方で南燕が立ち上げします。わずか10年でまた勢力図が大きく塗り替わりました。

ほんと、カオスの五胡十六国時代をよく体現している時期だと思います。

次回は華北西部を見てみます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
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