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枋頭の戦いの時の援軍に対する、前燕・前秦間の約束事をしれっと反故にしようとした慕容評率いる前燕でしたが、当然そのような行為は許されるはずもなく、苻堅様と王猛に絶好の前燕侵攻の口実を与えてしまいます。
369年12月、王猛率いる前秦の精鋭軍は、援軍の見返りとして割譲を約束していた虎牢以西の地、すなわち洛陽盆地への侵攻を開始します。
そして、この洛陽侵攻が前燕滅亡の道の第一段階でした。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
五胡十六国時代を描いた小説。前燕の慕容垂、慕容徳、慕容評も出てくるぞ↓↓
スーパーブランド都市・洛陽
洛陽は、五胡十六国時代に入る前に天下を治めていた西晋王朝の都であり、当時の中国では長安と並ぶ歴代王朝が都した華北の最重要都市です。
五胡十六国時代以前には、東周、後漢、曹魏、西晋がここを都としています。
西晋が滅亡する直接の原因である永嘉の乱のときに、漢(前趙)の攻撃により311年洛陽は灰燼に帰しました。
しかし、その後も桓温による北伐で東晋が洛陽を取り返したり、前燕が華北に侵攻したときに慕容恪が洛陽を獲得したりと、当時の中国では、天下を治めるためのシンボル的な都市として存在感は相変わらずでした。
洛陽盆地の地形
洛陽の街がある洛陽盆地は、盆地の名のとおり、まわりを山に囲まれた地形です。
位置的には天下(当時の中国)の中心にあり、まさに四方から侵入しやすい位置なのですが、山地に囲まれた洛陽盆地に入る道は8本しかありません。そしてその8本の道にはそれぞれ関が設けられ「洛陽八関」と呼ばれていました。
八関には、成皋関(三國志に出てくる虎牢関のこと)や、現在世界遺産になっている龍門石窟がある伊闕、函谷関(キングダムで出てくる秦の国門ではなく、前漢の武帝が以前の函谷関と異なる場所に作らせた関)などが含まれます。
まさに洛陽盆地自体が天然の要塞であったと言ってもよい立地条件でした。
王猛の侵攻
さて、前秦は王猛率いる3万の兵で洛陽に攻撃をしかけます。
王猛とともに、建威将軍・梁成、洛州刺史・鄧羌も軍を率いて参戦します。
率いる将を見ても前秦は最精鋭で侵攻したと思われます。
また、鄧羌は枋頭の戦い時に前燕に援軍に行っており、そのときに洛陽から潁川エリアに進軍していますので、洛陽周辺の地形や攻めやすい箇所なども理解していたと思われます。
王猛はおそらく、陝県からそのまま東へ進軍し洛陽盆地に入ったと思われます。
前秦に使者として赴いた前燕の臣・梁琛が陝東に大量に兵糧が運び込まれているのを察知していましたので、陝県を拠点として攻めたのではと予測されます。(史書には進軍ルートなどは一切記載されていませんので予測になります。)
陝県から東へ攻めたとなると、洛陽盆地に入るためには、上述「新」函谷関を通ることになりますが、王猛はこの函谷関をあっさり抜いたことになります。
(慕容評など前燕のトップに危機感がなかったので、満足な兵数が配置されてなかったのでしょう。これは洛陽自体の守兵の数も当てはまると思われます。)
洛陽の守将・慕容築
さて、洛陽を守る前燕の将は、慕容一族の一人荊州刺史・慕容築です。
荊州刺史は、前燕だと洛陽を治める役職だったようです。
さらっと調べても、誰の息子とか兄弟とかという記述は出てきません。
晋書と資治通鑑での戦いの流れの違い
この前秦の洛陽侵攻戦は、晋書と資治通鑑では少し流れが異なるようです。
晋書では、洛陽に援軍に向かった前燕の慕容臧が破られたあとに、慕容築が降伏するのですが、資治通鑑だと慕容築が先にさっさと降伏し、そのあと慕容臧の軍が撃破されます。
このブログでは、晋書での流れを基本として、資治通鑑の記述も加えながら書きたいと思います。
洛陽攻防戦
前秦と前燕の洛陽攻防戦は、洛陽の街自体の攻囲と、滎陽での両軍の激突を含めての戦いになります。
王猛率いる3万の前秦軍が洛陽に侵攻したと聞いた前燕は、衛大将軍・楽安王の慕容臧に10万の兵を引きいさせ援軍に向かわせます。
慕容臧
慕容臧は、慕容儁の長男でしたが、庶長子なので跡は継げず、弟の慕容暐が慕容儁のあとの前燕皇帝に即位しました。
慕容儁時代には前燕の将軍として戦功をあげていますが、桓温の第三次北伐で、東晋が攻め込んできたときには、桓温の前に手痛い敗北を喫しており、総司令官を更迭され、代わりに慕容垂が総司令官に任命されています。
慕容恪や慕容垂ほどではないが、悪くはない司令官であったと思われます。
石門の戦い
慕容臧は、まず新楽(新郷県)に城を築き、石門に布陣します。
石門は枋頭の戦いのときもその地名は何回が出てきました。今回出てきた「石門」は滎陽付近にあった石門とされており、おそらく黄河から流れ出す汴水の水量を調節する石の門の一つであったと思われます。
この石門で前秦軍と交戦した慕容臧は秦軍を打ち負かし、前秦の将軍・楊猛を捕らえます。
その後、滎陽の町まで軍を進めます。
滎陽は黄河から汴水が流れ出す位置にある町で、成皋関もこの町の近くにあります。洛陽盆地から中原に出てくると最初にある町です。
前秦軍、慕容臧を打ち破る
さて、慕容臧の軍が楊猛の軍を破り、滎陽まで進んできたことを聞いた王猛は、洛陽包囲軍の中から、梁成と鄧羌の二将軍に精鋭を率いさせ慕容臧迎撃に向かわせます。
今回の侵攻軍の中から、まさに主力を向かわせたわけです。
慕容臧率いる前燕軍と、梁成・鄧羌率いる前秦軍は、滎陽あたりで激突し、前秦軍の勝利で終わりました。慕容臧も梁成・鄧羌相手では分が悪かったようです。
慕容臧は、敗兵をまとめ新楽の守りを固め退却していきました。
洛陽陥落
滎陽での勝利の報を受けた王猛は、洛陽の守将・慕容築に書簡を送ります。
「お前らが、どれだけ成皋の険を塞ぎ、孟津の路を固めようとも苻堅様率いる精鋭軍は鄴の都を落とすぞ。今どれだけ洛陽の守りを固めようとも、すでに援軍は我らが打ち破り来ることはない。どうやってたかが300人の疲れ果てた兵で守りきろうと言うのか!」
この王猛の書簡からは、洛陽を守る前燕の兵がたった300人だけだったということがわかります。
援軍が来ないことを聞いた慕容築は、力尽き前秦軍に降伏をします。
こうして、365年に慕容恪が落としそれ以来前燕の領土だった洛陽は前秦により占領されました。
王猛は、鄧羌を洛陽の守将にし、自らは一旦軍を返します。
洛陽を失陥したことにより、前燕は対前秦の前線の一つを失いました。
このあと前燕は、もう一つの前線である并州(今の山西省)への攻撃を受けるのですが、その前に、慕容垂がらみで一騒動あります。
王猛の謀略により慕容垂、慕容令親子に危機が迫ります。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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