こんにちは。
前燕の実権を握る慕容恪は、河南方面の経略を進めていきます。
まずは、野王に割拠状態であった呂護の討伐を行います。野王は、今の河南省の沁陽市です。河南省に属していますが、黄河の北にあります。洛陽盆地からみてちょうど北にあたり、黄河を超えて太行山脈と黄河の間に位置します。古くは戦国時代の衛の国の最後に首都になったところです。地図をみると、洛陽攻略のためには抑えておきたい場所であると思います。
前回書いたように、慕容恪の武将・傅顔の活躍などにより「老賊」呂護を東晋へ敗走させ361年8月野王攻略に成功します。(呂護はその後しれっと前燕に復帰してきます。)
野王攻略後も前燕は引き続き、河南経略を進めていきます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
傅顔の動きと呂護の死
さて、前燕に復帰してきた呂護は傅顔とともに河陰に駐屯をします。
その後、傅顔は北に進軍し勅勒(丁零)を攻撃し、多くの略奪を成功させます。丁零は元々塞外にいましたが、この時代には中国内に入っていたようです。
その後、呂護は洛陽攻めに加わりますが、362年7月流れ矢にあたって死亡します。大国間を渡り歩いた梟雄にしては、なんともあっけない死でありました。
その後、段崇が黄河を北に渡り、野王に入ります。
河南経略の進捗
363年、前燕は寧東将軍・慕容忠に滎陽を攻めさせ陥落させます。滎陽は、黄河の南、洛陽盆地と今の鄭州市の間にあります。今の滎陽市の市域には三国志で有名な虎牢関もあります。ここも場所的に洛陽を攻めるためには抑えておきたい場所であったと思います。
また、鎮南将軍・慕容塵に河南エリアの長平を攻めさせます。これは失敗に終わります。ちなみにこの長平は山西と思ってましたが、河南にも長平があるのですね。
さて、河南エリアを攻略しながら、洛陽を狙う前燕ですが、当時は洛陽は東晋が支配しており、洛陽守備をまかされていたのは、冠軍将軍・陳祐という人物でした。
陳祐は前燕軍が迫るのを見て、都に援軍を求めます。それを受けた東晋政府は、エース桓温を洛陽へ向かわせます。
364年前燕は慕容評を出陣させ、河南の許昌・懸瓠・陳城を攻撃しことごとく陥落させます。ついには汝南の諸郡を攻略したとありますので、淮水の線まで前燕の勢力は広がりました。
東晋の桓温はこのとき部将・袁真を派遣して守備を固めさせ、自らも水軍を率いて合肥まで軍を進めますが、東晋朝廷からの呼び出しを詔としてくらい、その後赭圻というところまで軍を進めますがさらに詔をくらい進軍の停止を余儀なくされました。
洛陽攻略
さて、前燕軍の南下作戦は次々と進み、東晋側のぐだぐだの間に、洛陽盆地東側の河南のかなりの部分を制圧することに成功します。
そして、スーパーエース慕容恪と、ネクストエース慕容垂に洛陽攻撃に向かわせます。
洛陽攻撃の補助として、大宰司馬・悦希を盟津に配置させ、豫州刺史の孫興を成皋に配置させます。成皋はそれこそ洛陽盆地に入る東から直前くらいの場所で成皋関という関があったそうです。
前燕軍の侵攻を聞いた東晋の洛陽守備軍の陳祐は衆を率いて陸渾に逃げていき、河南の砦はことごとく悦希によって陥落させられました。
慕容恪は洛陽城の攻撃に入ります。逃走した陳祐から洛陽守備を丸投げされてしまった沈勁という人物は寡兵ながら奮戦しますが、とうとう洛陽は陥落し沈勁も討ち取られました。
これにより、中華のシンボルとも言える洛陽の都は前燕のものになりました。
洛陽獲得後の動き
慕容恪は、慕容筑に洛陽を守らせ、慕容垂を都督荊揚洛徐豫雍益梁秦等十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任命して兵1万を与えて魯陽を守らせます。
魯陽は今の魯山県で、南西から洛陽盆地に侵攻する敵に対しての守備として大事な地点であると思われます。
この前燕の洛陽獲得は華北西部で勢力を伸ばしていた前秦も前燕の動きを警戒せざるをえない状態にしていきます。
そして中国は華北東を前燕、西を前秦、華南を東晋が支配する三国鼎立の状態ができあがります。
前燕はこのあとも発展していくと思いきやこの洛陽獲得がピークであり、あとは坂道を転がり落ちるように滅亡の道を進んでいきます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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