オスマン帝国の領土拡大をたどる③ ~2代目オルハンのバルカン進出~

歴史

2代目オルハン

初代オスマンが没したあと、息子のオルハンが2代目として跡を継ぎます。このオルハンは政治・軍事に優れた指導者で、オスマン侯国はこのオルハンの40年の治世の間に国としての基礎を固めていきます。

ブルサの征服と北西アナトリア諸都市の制圧

オルハンはオスマンの時代から攻めていた、ビザンツ帝国の重要地点ブルサの街を1326年に陥落させます。オスマン侯国によるはじめての大きな街の征服でした。以後オスマン侯国はブルサを首都とします。

オルハンはブルサ征服のあとも北西アナトリアを次々と征服していきます。

1329年にペレカノンの戦いでビザンツ帝国正規軍に勝利し、1331年にニカイア(イズニク)、1337年にコンスタンティノープルのすぐ近くのニコメディア(イズミト)を征服しました。

統治制度の整備

オスマン侯国の領土が広がってくると、それに伴い、国の統治制度の整備も行われてきます。

まずオルハンはウラマー(イスラム学院で学び、イスラム諸学を修めた知識人)である、チャンダルル家を招き宰相とします。この家はこれ以後1世紀のあいだ、オスマン侯国の宰相・大宰相を輩出し、国の統治制度の発展に貢献します。

オルハンの時代に下記の制度が導引されていきます。

・前述の宰相制度の創設
・モスクの建築
・イスラム学院の開校
・ワクフ制度による都市の整備
・貨幣の鋳造

ちなみにワクフ制度とは、イスラム法によって規定された宗教寄進制度です。イスラム世界独特の制度で、寄進者は自分の収入の一部を、公的な目的(水場、浴場、モスクの管理など、インフラ整備)のために割り当てました。これによりイスラム世界では様々なインフラ整備が進んでいきます。

カレシィ侯国の併合

オルハンは1345年頃にカレシィ侯国を併合しました。カレシィ侯国は、マルマラ海やエーゲ海に面した位置に領土をもち、その海軍力で海を隔てたヨーロッパ側に略奪活動をしていました。

オルハンは、カレシィ侯国の内政に干渉をして併合したらしく、その軍事力を減らすことなく手に入れることができました。

バルカン半島への侵攻

上記のような内政を整えつつ、カレシィ侯国を併合し国力をのばしたオルハンですが、ここで大きなチャンスが訪れます。

ビザンツ皇族のヨハネスが王位継承争いを優位に進めるため、オスマン侯国に援助を申し入れ、皇女テオドラをオルハンに降嫁させました。長いビザンツ帝国の歴史の中では、このような周辺異民族や異教徒の力を借りる戦略をめずらしいことではなかったようですが、オルハンはこのチャンスを十分に生かします。

オルハンは、カレシィ侯国の併合によって手に入れた海軍力を活かし、ダーダネルス海峡を超えて、バルカンに渡ります。そして要衝ゲリボルを含むダーダネルス海峡周辺の地域を支配することに成功します。

このあと進められる、ヨーロッパ側での領土の拡張が、今後のオスマン侯国の国力アップにつながり、アナトリア地域の他の侯国を圧倒する力をつけるきっかけになります。

参考文献
鈴木 董  オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)
小笠原 弘幸 オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)
林佳代子 興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和(講談社学術文庫)

   

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