毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑧ ~第一次月山富田城の戦い~

歴史

尼子経久の死

吉田郡山城の戦いに敗れて、出雲に退却した尼子氏にさらなる悲劇が遅います。

尼子氏の全盛を築いた尼子経久が84歳で死去しました。また、進出していた播磨・備前・備後・石見でも有力国人領主らが次々と離反していきます。

尼子経久が築いた山陰の雄尼子氏は、その死とともに崩壊が始まりつつありました。

この様子をみていた大内義隆は、尼子氏を討滅するために出雲遠征を企図します。この計画には、武断派と文治派の家臣の意見の対立が起こりますが、結局武断派の筆頭陶晴賢の主張が通り、出雲遠征は実行されます。大内義隆は嗣子晴持とともに15000の兵を率いて出陣します。

毛利元就、出雲へ出陣

出雲遠征には、大内方でも一目置かれる存在になっていた元就ももちらん参加します。

この戦いでは元就の長男隆元も初陣を飾ります。

安芸の国人領主たちも宍戸、平賀、吉川、沼田小早川、天野、熊谷、香川とほぼすべての大内方の領主たちが参加します。

尼子に対して、周防、安芸、備後の多くの勢力が攻め込むという大内にとっては必勝の体制で望んだ戦いでした。

瀬戸山城の戦い

大内軍は天文11年(1542年)1月11日に出陣し、厳島で戦勝祈願をしたあと、吉川氏の本拠新庄を経由して石見に入ります。3月に出羽二山で陣をはり、石見の国人領主たちの軍を加え、出雲へ侵入しました。

まずの攻撃目標は尼子の忠臣赤穴氏が籠城する瀬戸山城です。

6月になって攻撃を開始します。

大内義隆の周防出陣から半年たっていますので、その行軍がいかにゆっくりしたものだったかわかります。

攻撃を受けた瀬戸山城ですが、要害堅固なつくりと、赤穴氏の奮戦により大内方を大いに苦しめます。

しかし7月になると元就や陶晴賢、内藤興盛らが猛攻をかけ、赤穴光清が矢にあたり討ち死にします。これにより赤穴氏は降伏しようやく瀬戸山城は落城します。

大内軍は勝つには勝ちましたが、初戦で思わぬ苦戦を強いられ、けが人の手当や補給の関係で足止めをくい、さらに冬になり降雪が激しくなったことから出雲国内で年越を余儀なくされます。

第一次月山富田城の戦い

年が明けて天文12年(1543年)1月20日に大内義隆は尼子氏の本拠月山富田城攻めの軍議を開きます。その軍議の席で元就は、尼子の勢力がいまだ強盛なことから、持久戦と調略による切り崩しを主張しました。しかし、大内義隆の寵臣、田子兵庫頭の強硬策が採用され、大内軍は2月12日に月山富田城近くの経羅木山に本陣をおき、月山富田城の力攻めを開始します。

この強硬策には、長く続く戦に嫌気がさしていた、遠征に参加した多くの諸将たちも賛成したそうです。厭戦気分を作ってしまった大内義隆は敗れるべくして敗れてしまったのかもしれません。

月山富田城は、山の断崖絶壁を利用した、当時でも最高クラスの難攻不落の城であり、4月になっても大内軍は城内に攻め入ることさえできません。

月山富田城での大内方大敗北

このように城攻めに苦戦しているあいだに、尼子方の謀略が炸裂します。

大内方として、尼子攻めに参加していた、安芸、備後の国人領主、吉川興経・山内隆通、出雲の国人領主、三沢為清・三刀屋久扶らが、尼子方と通じ月山富田城に入城してしまいます。

これにより、当地での勢力は逆転し、また敵陣深く攻め入っていたことから兵糧の不足も心配になったことから、大内義隆は退却を決断します。

吉田郡山城の戦いのときとは逆で今度は大内方が尼子の追撃により惨劇にみまわれます。

大内義隆の嗣子、晴持は海路で退却をしようとしたところ船が沈み溺死してしまいます。

大内義隆と陶晴賢は、陸路で退却したため、大変な思いをしながらもなんとか周防に退却できました。

安芸の国人領主では、沼田小早川正平が尼子の追撃により討たれてしまいます。

元就も、退却中に石見で尼子軍に追いつかれたものの、渡辺通が身代わりになったことによりなんとか吉田へ退却することができました。

こうして第一次月山富田城の戦いは、大内方の散々な敗戦により幕を閉じました。

これ以後大内義隆は政治と軍事に意欲を失い、京の文化に傾倒していきます。

思えば、吉田郡山城の戦いは尼子の衰退を導き、第一次月山富田城の戦いは大内の衰退を導き、それぞれ、中国地方の二大勢力の終わりの始まりとなった戦いだったでしょう。

そして、この2つの戦いを切り抜けた毛利元就の中国地方制覇の道はここから始まっていったのでした。

 

 

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