尼子の逆襲。大内氏の衰退。そして尼子氏も安芸の切り崩しに失敗。
第一次月山富田城の戦いで大内軍が敗北し、毛利元就はからくも吉田郡山城に退却しました。
この第一次月山富田城の戦いで、負けた大内氏はもとより、勝利した尼子氏も往年の勢いはなくなっていました。
そして、中国地方の二大巨塔が衰えてきたこのタイミングは毛利元就にとっては飛躍する大きなチャンスでした。
第一次月山富田城の戦いで勝利した尼子氏は、逆襲とばかりに、安芸、備後の国人領主たちの切り崩しにかかります。
備後の杉原氏がこれに呼応し、沼田小早川領へ攻め込んできます。沼田小早川家は当主正平を失ったばかりのところに杉原氏に攻め込まれ滅亡の危機を迎えます。
そこへ元就が援軍を差し向け、杉原軍を撃退します。
沼田の家臣たちの多くはこのことに感謝し、毛利との絆ができます。
このことがのちに大きく生きてきます。
また、元就の踏ん張りにより、安芸の国人領主たちが大内方から尼子方に傾くのを最小限に抑えられました。
隆景の竹原小早川家への婿入り
元就は、安芸の国人領主との結びつきをさらに強くしていくことに力をそそいでいきます。
まずは、山陽方面の竹原小早川家で動きがあります。
竹原小早川家は、天文10年(1541年)に当主の興影が後継者のないまま亡くなっていました。小早川家の家臣は協議して、元就の銘が興影に嫁いでいた関係もあり、元就の三男徳寿丸(隆景)を養子に迎えることにしました。
元就は最初難色を示していましたが、天文13年(1544年)になって徳寿丸は婿入りします。そして備後神辺城攻めで当時12歳であるにもかかわらず、さっそく戦功を上げたと伝えられています。
沼田小早川家も相続する
このあと、隆景は沼田小早川家も相続することになります。
沼田小早川家は先の第一次月山富田城の戦いの退却時に当主の正平が21歳で討ち死にし、息子の繁平が跡を継いでいました。しかし3歳で目が見えなかったため、家臣から隆景と繁平の妹を結婚させ沼田小早川家を継がせようという動きが出てきました。
これには先年の杉原の侵攻を元就が撃退して沼田小早川の家臣から信頼されていたことも大きく影響しているでしょう。
反対派の動きもありましたが、結局、大内、毛利の後押しがあり、隆景は天文19年(1550年)に正式に沼田小早川も継ぎ、竹原と沼田の両小早川家は合併することになります。
このあと、元就によって反対派が粛清されます。
この一連の動きは、元就による両小早川家乗っ取りであったろうと思われます。
しかし基本的には大きな混乱が起こってないことから、全体的には元就の動きに多くが納得しての流れだったのでしょう。
このあたりが毛利元就の謀略の妙であると思います。
両小早川家を乗っ取ったことにより、毛利の勢力は山陽方面に大きく伸びていき、小早川家がもつ瀬戸内水軍も手に入れたことになります。
そして山陽方面に領地を持つ両小早川家の乗っ取りと同時進行で進められたのは、安芸北部に領地を持つ、吉川家の乗っ取りです。
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